みすず書房

シャーロット・ブロンテ

Charlotte Brontë

1816年ヨークシャーのソーントンに、英国国教会牧師である父パトリック・ブロンテと母マリアの三女として生まれる。4歳の時父の転任によりハワースに移転、ここの牧師館で生涯を過ごした。5歳の時母が死去し、以後伯母に育てられた。1824年ランカシャーのカワン・ブリッジにある寄宿学校に入学。妹エミリと共に劣悪な環境に苦しんだが、同校在学中の二人の姉が健康を害して退学し相次いで死去したため、一年足らずで退学。1826年父の土産の人形から、きょうだい四人の空想遊びが生まれ、その記録から発展した「アングリア」の諸作品を、以後十数年間書き続ける。1831年マーフィールド近くのロウ・ヘッドの寄宿学校で家庭教師になるための教育を受け、翌年退学。1835年同校に助教師として赴任。1838年退職するまでの間に、エミリと末妹アンが同校で教育を受けられるよう計らう。1839年と1841年、二つの家庭で住み込み家庭教師として辛酸をなめる。1842年ブロンテ寄宿学校開設計画の実現に向けて、エミリと共にブリュッセルのエジェ寄宿学校に留学。約9カ月ののち伯母の死去により帰国。1843年単身ふたたび同校の英語教師として赴いたが、翌年初頭に帰国。開校計画が失敗した結果、1846年「カラー・ベル」という男性的筆名を使って妹たちとの共同詩集を出版し、続いて小説執筆に取り阻んだ。処女小説『教授』の出版が実現せぬうちに次作『ジェイン・エア』が1847年10月出版され、大評判となる。1848年秋から翌年初夏にかけて、弟ブランウェル、妹エミリとアンが次々に死去。シャーロットは悲嘆と苦悩の中で『シャーリー』を執筆し、1849年10月に刊行。1853年『ヴィレット』が刊行され、文名は確立した。1854年父の牧師補アーサー・べル・ニコルズと結婚。短い結婚生活ののち、翌年3月38歳で死亡。『教授』は1857年死後出版された。