みすず書房

「執筆依頼が来ると、私はまず、折口信夫が弟子にかねがね〈心躍りのしない文章は書くものじゃないよ〉と言っていたことを思い出す……自分の領域で、しかも今までにない新しい切り口をみせることができるものが私にはいちばんいい。20パーセントぐらいは冒険的要素があっても、つまり未知の領域に乗り出す冒険があってもいい」

3年前、エッセイ集『記憶の肖像』を世に送った著者は、その後も、精神科医としての日々のなかで、さまざまなスタイルの文章を紡ぎつづけてきた。専門である分裂病を論じても、ギリシャ文学について書いても、戦後を生きた日々や友人の思い出、そして阪神大震災の渦中の神戸の様子を描くときにも、そこには鋭い観察眼と稀なる感受と寛容が折り合わさって、無比の文体が構築される。その文章を一書にまとめた。
医師として往診先の家庭に赴くときの心づもりや現場の模様をたんたんと綴った表題作「家族の深淵」、かつて下宿していた韓国夫人の思い出を主奏に、ウィルス学から精神科に転身する当時の自分と周辺の姿、さらに祖父の生き方を重ね書きした「Y夫人のこと」をはじめ、分裂病や老い、ハンガリーへの旅、ギリシャ詩について、独自の文化論でもある「きのこの匂いについて」、原稿依頼から完成までの書き手の心身の変容を細部までユーモラスに描いた「執筆過程の生理学」まで38篇。冷戦時代とともに生き、神戸に住まい神戸を愛する著者のみごとなオブジェである。

第50回毎日出版文化賞受賞。

目次

I
家族の深淵 往診で垣間見たもの/Y夫人のこと/二つの官邸へ/学園紛争は何であったのか/「マルス感覚」の重要さ/戦時中の阪神間小学生/新制大学一年のころ/雲と鳥と獣たち/旗のこと/文化を辞書から眺めると/漢字について 中国留学生との体験/治療の政治学
II
治療文化論再考 第一回多文化間精神医学会において/分裂病の陥穽/精神病棟の設計に参与する/重層体としての身体/精神病院入院患者に対する心理療法について/自己認識としての精神機能の老い/R・D・レインの死/多重人格をめぐって/医学部というところ/諸国物産絵図/歩行者の思考 土居健郎『日常語の精神医学』/日本に天才はいるか
一医師の死/居心地/きのこの匂いについて
III
ハンガリーへの旅から 一九九二年六月/カテドラルの夜/ある少女/イオニア海の午後/私と現代ギリシャ文学/劇詩人としてのカヴァフィス/リッツォス詩の映画性/カヴァフィスにささげる十二詩 翻訳/詩の基底にあるもの その生理心理的基底/「心躍りする文章」を心がけたい/執筆過程の生理学 高橋輝次『編集の森へ』に寄せて

あとがき
初出一覧