みすず書房

「人生ということばが、切実なことばとして感受されるようになって思い知ったことは、瞬間でもない、永劫でもない、過去でもない、一日がひとの人生をきざむもっとも大切な時の単位だ、ということだった」

〈いつかはきっと/いつかはきっとと思いつづける/それがきみの冒した間違いだった/いつかはない/いつかはこない/いつかはなかった/人生は間違いである/ある晴れた日の夕まぐれ/不意にその思いに襲われて/薄闇のなかに立ちつくすまでの/途方もない時間が一人の人生である/ひとの一日はどんな時間でできているか?〉

つまるところ、詩とは過ぎゆく時間と対峙して、自らとことばを確保する営為ではなかろうか? この100年という長い一日の終わりを前にして、これまで素の自分をナマのかたちで表現すること少なかった詩人=長田弘が、はじめて、凛としていさぎよく、自らの〈人生の秋〉を詩った「私」詩篇。

目次

いま、ここに在ること
  人生の材料
  記憶
  深切
  愛する
  間違い
  言葉
  魂は
  経歴
  老年
  惜別
  微笑だけ
  哀歌
  自由に必要なものは
  空の下
  穏やかな日

マイ・オールドメン
  緑雨のふふん
  露伴先生いわく
  鴎外とサフラン
  二葉亭いわく
  頓首漱石

一日の終わりの詩
  午後の透明さについて
  朱鷺
  新聞を読む人
  意味と無意味
  Passing By

あとがき

編集者からひとこと

もうじき終わろうとしている二十世紀、この百年という歳月も、ある意味では、長い一日であろう。この長くて短い歴史=一日のなかで、わたしたちは何かを深く自らにきざんだろうか?

〈いつかはきっと
いつかはきっと思いつづける
それがきみの冒した間違いだった
いつかはない
いつかはこない
いつかはこなかった
人生は間違いである
ある晴れた日の夕まぐれ
不意にその思いに襲われて
薄闇のなかに立ちつくすまでの
途方もない時間が一人の人生である
ひとの一日はどんな時間でできているか?〉

では、先人たち、たとえば緑雨の場合、その人生はどうだったか?
〈志を抱いて死す、さもしからずや。
物には退いて考えることあり。
…………
今はいかなる時ぞ、いと寒(さぶ)き時なり。
頭を下げるはチト理屈に阿波の十郎兵衛、
理屈の絶える時なし。世の中は、
あははに非ず。ふふんなり。〉

他の先人たち、その一人一人の孤独や夢や希望は何でできていたのか? 詩人は「オールドメン」に代わって、すなわち露伴・鴎外・二葉亭・漱石ななり代わって、この世紀のことばを伝えてくれる。
〈だが とんとロンリー・ライフです
私は 二十世紀の文明はみな
無意義になるんじゃないかと思う〉

結句、詩とは歴史や人生と対峙して、自らとことばを確保する営為ではなかろうか? 詩人・長田弘はこれまで久しく、素の自分をナマのかたちで表出すること少なかった。しかしこの新しい詩集において、詩人は凛としていさぎよく、自らの〈人生の秋〉を詩っている。これは、二十世紀への別れの詩、詩人にとって初めての「私」詩集である——「もうこれからは、ただ惜別の人生を覚えねばならない」。

〈ひとは死ぬ。
赤ん坊が生まれる。
ひとの歴史は、それだけだ。
そうやって、この百年が過ぎてゆくのだ。

何事もなかったように。〉