みすず書房

「ポール・ゴーガンはつねに〈異国〉を背負っていた。ゴーガンはその時代と生涯をつうじて、いわば〈異なるもの〉との相剋のなかで生きたのである。彼には、この地上のどこにも、彼自身が自足できる固有の領域というものがなかった。自足できないというこのことが、ゴーガンの〈領域〉をつくりだしたのである」。

今年(2003年)は、ポール・ゴーガン没後100年にあたる。本書は、近年のゴーガン研究や新資料を存分に盛りこんで、この複雑きわまりない芸術家の、想像・表現・現実にわたるドラマを描ききった、本邦における第一級の評伝である。
1848年の2月革命直後の動乱期に生まれ、生後わずかでペルーにわたって幼少期をすごしたゴーガンにとって、〈異国〉とは何だったのか。みずからを《わが意に反して野蛮人となったもの》と呼んだこの画家を、パナマからマルティニックへ、そしてタヒチ島、ヒヴァ・オア島へと駆りたてたものは何だったのか。

著者は言う、「ゴーガンという〈存在〉はゴーガンという〈主体〉には還元できない」——激動の時代と、印象主義からポスト印象主義、象徴主義への芸術思潮のなかに、ゴーガンの生きた脈絡を位置づけながら、主要な絵画と、『ノアノア』などの著作や日記を綿密に読みこむ。そこから浮かびあがるゴーガンの雑種的な個性を、〈異なるもの〉との接点と結ばれ、という一貫したモティーフに沿って追求した、伝記評論の決定版。

目次

はじめに
第1部 〈異国〉を離れて
1 「ボクは悪い子なんだ」
二月革命——ペルーへの出発/リマの記憶/オルレアン/アローザ一家
2 船員として
見習い水夫/第二帝政の終焉と「ジェローム・ナポレオン」号
3 二重生活——株の仲買人
パリ・コンミューンと復員青年/ふたたびアローザ一家/エミール・シュフネッケル/メットとの結婚
4 印象主義の方へ
カミーユ・ピサロ/第一回印象派展——最初の接触/〈異国〉との再会——彫刻修業/未曾有の好景気
5 二重生活から画家へ
第四回印象派展/印象派の闘い/ポントワーズ——セザンヌとの出会い/ユイスマンスの批評
6 放浪画家
取引業界を去る/デンマークの生活/シュフネッケル宛の書簡
7 最後の印象派
デンマークからパリへ/最後の印象派展——スーラとの関係/ふたたび彫刻修業——ピサロとの決裂
8 ブルターニュへ
ポン・タヴェン/パナマへの夢

第2部 〈異国〉へ向かって
1 パナマからマルティニックへ
夢のタボガ島/マルティニック島
2 ゴッホとの出会い——その端緒
印象主義と「プチ・ブールヴァール」/ふたたびポン・タヴェンへ/ポン・タヴェンの春/『説教のあとの幻影——ヤコブと天使との闘い』/ピサロの批判
3 南仏のアトリエ
アルルのファン・ゴッホ/肖像画の交換/アルルの二ヶ月/共同生活の破局
4 万国博のパリとル・プールデュ
ある死刑執行に立ちあって/シュフネッケル一家の家族像/パリ万国博覧会と「カフェ・ヴォルピニ」/ポール・セリュジェと「ナビ派」/ゴッホとの関係から/宗教画をめぐって/『オリーブ山のキリスト』/ゴッホの死
5 詩人たち
モリス、マラルメ、ミルボー/女たち、メット、別れ/カフェ・ヴォルテールでの壮行会
6 第一次タヒチ滞在
出発/タヒチの夜/マタイエア/『イア オラナ マリア』と『斧をふる男』/テハッマナと『ノアノア』/帰国

第3部 〈異国〉の内で
1 最後のフランス
帰国後の展覧会/批評界——ミルボーの批評から/コンカルノーの事件——『ある絵画の発生』/アナーキストたち——ストリントベリ/『オヴィリ』/最後の出立
2 タヒチの内側へ
奔走——プナアウイア/『ゴルゴタの傍で』/アリーヌの死/『カトリック教と近代』/ひとつの大作——「精神の遺書」
3 〈異国〉のなかの政争
《雀蜂》と《微笑》/パペーテにおける政争/カトリック党集会での演説/パペーテでの最後/ヴォラールの支援/母性的なもの/最後の「論争」/『三文画家の無駄話』
4 ヒヴァ・オア島へ
快楽の家/ふたたび歯車のなかへ/「罠」にむかって
5 最後のゴーガン
ゴーガンの死/結語にかえて


あとがき
参考文献

著者からひとこと

ポール・ゴーガン〔1848−1903〕はフランスの「後期印象派」つまりポスト印象派の一人と見なされている。だがこの画家は、その幼少期のペルー、青年期の海洋、そして壮年期のヨーロッパから、やがてオセアニアへと、その生涯の全体をつぶさにたどると、絵画的世界はもちろんのことだが、他にも表現・想像・現実の世界において、さまざまな問題を背負っていたことがわかる。

ゴーガンは絵画のみならず版画、彫刻、陶器などをつくった。それと同時に彼は批評家にして理論家、アカデミズムの弾劾者、非順応主義のパンフレット作者、自伝作家などの文筆家をも兼ねていた。彼は時代に先駆けた、歯切れのよい、飛躍のある独特の文体をつくりあげた。そして何よりも彼は大旅行家であった。

ゴーガンは、今でいえば脱サラリーマンであろう。青年時代の船員の生活、パリ・コンミューンを経て、証券界での生活の後、人間関係の周密・競合的でままならぬ大都会を離れて、ブルターニュのポン・タヴェン、それからマルティニック島、そこから帰ってすぐにアルルへとゆく。友人ファン・ゴッホとの不幸な別れの後、ル・プールデュ村を経て単身でタヒチ島、さらに晩年にはマルキーズ諸島のヒヴァ・オア島へと赴く。そして彼はその小さな島で生涯をおえる。

それは逃避であると同時に挑戦であった。ゴーガンは多感な、きわめて脆い人間であった。と同時に知的な、たくましさがあった。つまり強さがあった。これは矛盾である。しかしそれが彼の性格であった。いわば彼はつねに「雑色」であったのである。

ゴーガンは脱サラリーマンというだけではない。彼は二足のわらじ、三足のわらじを履いた。いちど見たら忘れられない彼独特の色彩感覚や、構成の感覚だけではない。文章にあらわれるような、自虐かと思える、すれすれの鋭利な批評精神も、彼の特徴である。ある〈限界〉を感じさせるものが、彼にはある。ゴーガンは、そのような〈限界〉を生きた。われわれが、今日もなお彼に学べるのは、その点であろう。(丹治恆次郎)