みすず書房

本書の狙いは、「昭和初期のわずか十数年のあいだの『ユリシーズ』騒動の経緯を、単なる編年的な経過報告ではなく、できるだけ直接資料に当たって、具体的にたどることにある。伊藤整の言葉でいえば、〈混乱と、行きすぎと、やり直しの苦渋に満ちた時代〉の様相を、『ユリシーズ』翻訳という鏡を通して眺めてみることにある。

『ユリシーズ』は数しれない雑多な物語を内包する作品である。誰でもがそこから自分なりの物語を紡ぎだすことができる。同時に、作品の受容に関しても、じつにさまざまな物語をこれまでに生み出してきた。本書は、昭和初年代の日本を舞台にした『ユリシーズ』の、熱気と混乱と苦渋に満ちた受容の物語である」(まえがき)。

日本におけるジョイス受容、本書においてそれはまず、丸善の洋書売り場に佇む芥川龍之介から幕が明く。ついで、野口米次郎から土居光知・堀口大学へとつづき、さらに伊藤整らによる『ユリシーズ』翻訳と心理主義に対する小林秀雄の激烈な批判によってクライマックスを迎える。その後に西脇順三郎や春山行夫の論評、第一書房と岩波文庫による翻訳合戦、『ユリシーズ』をめぐる猥褻と検閲の問題など、文壇の域を超えた文化的・社会的事件が生き生きと語られてゆく。『ユリシーズ』の翻訳=出版の諸相を日本の現代史に位置づけ、その軌跡と意義を明らかにした第一級の論考。

目次

まえがき
プロローグ 芥川龍之介とジョイス
日本橋書店——芥川の丸善/芥川の『若き日の芸術家の肖像』
第1章 野口米次郎とジョイス
新婦朝者ヨネ・ノグチ/『学鐙』と野口米次郎/雑誌『エゴイスト』と野口/「画家の肖像」/H・G・ウェルズのジョイス論/アメリカのジョイス/野口のジョイスとエズラ・パウンド/二重国籍者ヨネ・ノグチ=野口米次郎/野口の現代文学
第2章 『ユリシーズ』登場——杉田未来、土居光知、堀口大学
『ユリシーズ』出版の経緯/杉田未来(高垣松雄)の『ユリシーズ』/土居光知の『ユリシーズ』/堀口大学/ヴァレリー・ラルボーの功績/堀口大学の「内心独白」/堀口のラルボー翻訳/ふたたび土居光知について/「ヂヨイスのユリシイズ」/土居の訳例(第五挿話)/土居の訳例(第六挿話)/土居の訳例(第七挿話)/オーモンド・ホテルの客間の情景/語りの遊戯性/土居のペネロペイア/土居の結論——その背信/意識の流れの書法(括弧の使用)
第3章 伊藤整氏の奮闘
伊藤整の登場/伊藤の理論と実践/小林秀雄の「心理主義」批判の戦略/シモンズのゾラ論/伊藤の弁明と小林のカウンターパンチ/伊藤の「自己の弁」/『新潮』座談会「新しき文学の動向に就て」
第4章 西脇順三郎と春山行夫
ロンドン体験/「二十世紀英国文学評論」/西脇「ヂエイムズ・ヂオイス」/春山行夫——楡のパイプを口にして/「「意識の流れ」と小説の構成」
第5章 第一書房対岩波文庫——『ユリシーズ』翻訳合戦
海賊版『ユリシーズ』/『ユリシーズ』原著の値段/日本語訳『ユリシーズ』の歴史/『ユリシーズ』ア・ラ・モリタ——岩波文庫の『ユリシーズ』/森田草平の「僕の性に会ふもの合はぬもの」/岩波版『ユリシーズ』/二つの版の翻訳比較/龍口直太郎/翻訳比較——第八挿話
第6章 『ユリシーズ』裁判——猥褻と検閲
猥褻文書としての『ユリシーズ』/出版前の裁判沙汰——悪徳防止協会/『ユリシーズ』の最初の読者——エズラ・パウンドの警告と検閲/「人並みの官能男」(I’homme moyen sensual)の登場/連載への抗議——読者からの投書/最初の処分——郵政省の配達禁止/パウンドの不満/『リトル・リヴュー』の敗北/ナウシカアの受難/ナウシカアの誘惑/『ユリシーズ』裁判/日本での翻訳出版/発禁の実態/岩波文庫版の削除/『ユリシーズ』は猥褻か/検閲と売行き
エピローグ『ユリシーズ』再訪
「文芸復興座談会」——『ユリシーズ』受容?/伊藤整の『ユリシーズ』再読/我が芸道の師ジョイス/伊藤整と土居光知との再会/文化的イコンとしての『ユリシーズ』——『ユリシーズ』は傑作か/『ユリシーズ』——「二〇世紀でもっとも偉大な小説」
あとがき