みすず書房

精神分析の観点から、日本人の〈きずな〉や〈つながり〉の発生を研究するに際し、著者が着目してきたのは、『古事記』や昔話、浮世絵の母子像や春画に描かれた二者あるいは三者の光景だ。そこでまなざしを向けられるのは、描かれた人であるよりもむしろ、人と人との間や背景、つまり見えない心の交流・動きである。そこに読み取られるのは、人と人とのつながりであり、つながりがありつづけているという幻想であり、つながりが断ち切られることから生じる幻滅である。個人にとって「幻滅」とは、人知れず体験される心的苦痛であると同時に、心が現実と触れあうチャンスでもある。この幻滅体験を患者と共にみつめ、成熟への時間と空間を提供するのが精神分析家の仕事なのだ。
今回、著者の応用精神分析的論考の新たな成果として、「「日本人」という抵抗——私見」を増補。独自のスタイルで発展する我が国の精神分析の歴史をその起源から分析的に考察するとともに、広く日本文化における「幻滅恐怖」と「二重性」の問題を取り上げる。

目次

はじめに
I 言葉にすること
言語的治療として/言語の理論/言語的実践のために

1 人と人のつながり
II 情緒的交流
情緒の言葉/言語と情緒の対立図式/情緒的洞察/言語の優位
III 描かれた過去から
反復の起源/浮世絵の母子像/モノを媒介にして/浮世絵の中の人工性/調査結果
IV 二者間内交流と二者間外交流
開かれた二者関係/二重の交流/若干の国際比較/あの歌よもう一度

2 「つながり」の構造
V 春画のなかの子どもたち
父親の場所/好色と禁止/性交に参加する子どもたち
VI 「甘え」とその愛の上下関係
「甘え」の位置関係/愛の上下関係/目下から愛情/パースペクティヴの交替
VII 幻滅と比喩
言語以前/「つながり」の比喩/「つながり」の幻滅/部分から全体へ/反省/いること
VIII 幻滅と脱錯覚
いわゆる「幻滅」とは/父親による幻滅/クラインの幻滅/幻滅を回避する可能性/中間領域の錯覚/父親のこと/幻滅しないなら
IX 浮かんで消える
幻滅の物語/見るなの禁止/はかない対象/生の執着と死のあきらめ/もののあはれ

3 幻滅の臨床
X 恥の取り扱いをめぐって
「蓋をとる方法」/症例・ドラ/露出と拒否の物語/幻滅の手前/理論的考察/かかる時間
XI 「恩」概念の臨床的意義について
恩と罪悪感/臨床体験——人の世話になりたがらない/患者たち/返しきれない恩
XII 阿闍世コンプレックスの罪悪感
治療経験/自虐的世話役/急激な幻滅と罪悪感/絵による提示/治療者の同一化/現実の価値
XIII 物事と言葉
幻滅の歴史/治療現場の饒舌/形あるものの力/多義的なコトバ
XIV 環境の価値
精神分析の文化論/環境決定論との出会い/英国/環境決定論/ポテンシャルとしての「本当の自分」/その取り扱い/しかしウィニコットにはなれない
XV 現実依存
依存の事実/関係を織り込むこと/「膨れ上がるイメージに比べて現実が小さすぎる」という女性患者/現実の価値

さいごに
XVI 日本語臨床と独創性
独創性と事典/臨床実践から書いたものへ/日本人のオリジナリティ

[増補] 十年後の応用精神分析
XVII 「日本人」という抵抗 ——私見
1 はじめに/2 組織的な問題/3 四人のパイオニアの「抵抗」/4 「闘い」とアムステルダム・ショック/5 二重性の起源と反復

あとがき
私のなかの「兎と亀」——増補版へのあとがきに代えて
初出一覧

「私のなかの「兎と亀」——増補版へのあとがきに代えて」

(増補版には新たに「私のなかの「兎と亀」——増補版へのあとがきに代えて」が書き下ろされました。全文をここでお読みになれます。)

ここに私の書いたものの多くは、人には表と裏があって、それがゆえの「見るなの禁止」と幻滅が中心テーマになっている。とくに図版や文献として、生産的な美女の姿の奥に傷ついた鶴や死んだ母親がいたという物語展開を踏まえたものが再三登場する。この物語には、汲んでも汲んでも汲み尽くせぬ奥行きがあるために、私は数十年にわたって考察して来たのだが、昨今の震災や環境破壊もまた母なる地球の「見るなの禁止」が破られたものと捉えられるので、私はなかなかこの比喩の使用を止めることができない。

そのためだろうか、私を知る一部の人からは、北山もまた「つう」のように、自分を傷つけて人の世話をする自虐的世話役をやっているのではないかと思われているようだ。もちろん、それは一面の、あるいは一時の真実といえる。昼間、人前に出て、楽しそうに舞台に上がる元気なつうの楽屋裏には、時に、いろいろなことで傷ついたり、悩んだり、疲れていたりする鶴がいる。そして完全主義で、強迫的になって、時間に追いつめられて仕事を仕上げて、その直後は疲れきっていることがある。

しかしながら、この異類婚姻説話を私自身の人生に置き換えようとするなら、それでは一面的であり、私の大好きな「兎と亀」のメタファーを重ねた方が、個人の全体像としてはさらに正確になる。この度、刊行から十年を経て改めて『幻滅論』を読み直しながら、私自身についての視覚的イメージとしてようやくこの二つのメタファーから成る物語の輪郭がはっきりとしてきたのだ。

実は「兎と亀」の物語もまた、一人の人間の中で起きる二重性の寓話である。こちらは裏表というより昼夜の二重性であろう。つまり執筆の際は、午前中元気な表の兎が一気呵成に書き散らし、午後神経質な裏の兎が目を凝らしてそれをチェックし、修正加工し、完成して疲れていく。生産者にありがちな「台所は火の車」あるいは「自転車操業」のような状況を、外から見る「与ひょう」たちは当然驚くのだが、それは私の全部ではない。つまり、その後の物語がある。

私が、昼間遊んで、あるいは懸命に働き、夜になり疲れ果てて横たわり目を閉じると、あるいは勝って満足して安らかな気分で横になると、眠り込んだ兎の後ろからゆっくりと亀が立ち現れる。この亀の心は、歩みはのろく、夜行型で、ほとんど夢と眠りの中にいる。ときには泥の中に棲息し、まさに泥亀になることもある。そして朝方、顔を上げて覚醒に向かうところで深く考えながら目ざめていく。沈思黙考している。

この流れは『劇的な精神分析入門』(2007)にも著わしたが、そこで私はこの「考える亀」を「素の自分」だと書いた。歌や原稿のタネやアイデアはそこで生まれる。精神分析や人生における創造性はそこが現場だし、特に精神分析の実際では、この考える亀や素の自分になることが重要だ。何も見ずに、心眼らしきものが開かれる。

そして日中の執筆活動では、この兎と亀の協力関係こそが核心なのだ。例えば朝方亀が考えついたことを、覚醒した兎が書き記し、書き直す。外から見る人には兎しか見えないとしても、とくに分析者と被分析者の双方にとって、精神分析は主に正直な亀の仕事であり、兎の仕事ではない。亀となり亀を想うこと、劇的になる浮き世の裏の仕事に携わる者として、このことを忘れてはならないのだろう。

しかし、舞台にこの地味な灰色の亀が登場したとしても、外の人には見過ごされることが多く、「与ひょう」たちに対して声を上げてもやっぱりかと頷かれるだけで、注目もされず、派手に傷ついた兎が見えた時ほどは驚かれない。それとして気づかれないとしても、兎が亀となるプロセスの内側では、軽い脱錯覚がおこっているはずだ。悲劇的な幻滅とならずに、そこそこ順調に大人になり、そしてよたよたとではあるが年をとるということ、それはこの地味で貴重な脱錯覚の連続なのである。そのことが最近、自分のこととしてよくわかってきた。

(平成24年7月  北山修)
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