みすず書房

『山の音』こわれゆく家族

理想の教室

判型 四六判
頁数 128頁
定価 1,650円 (本体:1,500円)
ISBN 978-4-622-08324-5
Cコード C1395
発行日 2007年3月23日
オンラインで購入
『山の音』こわれゆく家族

六十二歳の尾形信吾は、妻保子、息子の修一夫婦とともに日常生活を送っている。だが信吾の内面は、美しく感受性豊かな嫁菊子に覚える幽かな情愛に戸惑い、揺れていた。繊細で冷酷なまなざしのもとに描かれる戦後の老い、性、夫婦、家族。川端康成の傑作を、カワバタ文学にとりつかれたイタリア語翻訳家が濃やかに読み解いてゆく。

著者からひとこと

「理想の教室」シリーズの執筆依頼があったとき、かなり迷いました。その仕事を受けるべきかどうか。それまでシンポジウムでの発表や雑誌のための記事などを日本語で書いたことはありましたが、いずれも短い文章のため、本の執筆に関わる文体的かつ構造的問題に直面する必要はなかったのです。私には、一冊の本を書ける力があるのかどうか、自信がなかったのです。でも、同時に「やってみたい」という強い気持ちがあったこともはっきり認識していました。
それはまだ学生の頃でした。ドキドキしながら初めて日本に着陸した遠い朝に、私の中に「もう一人の自分」が生まれました。その「もう一人の自分」は日本語で考え、夢も日本語で見ていました。しかしその後も、いくら仕事や日常生活において日本語を操りながらも、現実の世界に住んでいる私には、日本語が元来自分に属さない言葉であるという意識が常に存在していました。イタリア語に属さない別の次元に在り、日本語で思考する、私の中に棲む「もう一人の自分」を黙殺しながら。そしてこの依頼を受けたとき、ついに私の心に、その別の自分に声を与えたいという思いが、かすめたのです。
私を納得させたもう一つの理由は、30年以上も私の人生に伴って来た、大好きな川端康成の作品について、日本人に「私の川端」いや「あるイタリア人の目で見た川端」を語るための、ユニークなきっかけになるということでした。それは負債を返すような気持ちだといってもいいかもしれません。
執筆を開始してから完成までは、浮き沈みのはげしい毎日でした。母国語ではない言葉で本を書くことが、アイデンティティーの不安定を生じさせる一方で、文化的なアイデンティティーと一緒に固まってきた様々な概念やステレオタイプの負担は軽くなったような気がします。今になっても、言いたいことをどれだけ言えたのかは自分でも判断できませんが、この本を通して、私が「山の音」で見ることのできた素晴らしさや輝きを、読者の皆様に少しでも味わっていただくことができれば、これ以上の喜びはありません。 (2007年4月)