「みすず書房」ページ内リンク

  1. 「メインメニュー」へ移動
  2. 「みすず書房の本の検索メニュー」へ移動
  3. 「本文」へ移動
  4. 「サイト利用ガイド」へ移動



トピックス

『ロスト・ジェネレーション』

マルカム・カウリー 吉田朋正・笠原一郎・坂下健太郎訳

ロスト・ジェネレーションというとこのごろ、90年代のバブル崩壊後の就職氷河期にゆきあってしまった年代をさすこともあるようだ。そういう区切り方、名づけ方じたい世代でものを見てみようとするから当然かもしれないけれど、世代論もこのごろやや目立つ気がする。むろんいつの世も茶飲み話酒呑み話をふくめて世代論は語られる。でも、あらためて思う。世代って何だろう。

――僕がいま語っているのは、だいたい1915年から22年頃までに大学を卒業した、あるいは本来なら卒業していたはずの若者たちのことだ。(…)彼らが十代(ティーンズ)だったころ、二十世紀もまた10年代(ティーンズ)であったのだから、彼らがこの世紀と自分とを好んで同一視するようになったとしてもべつに不思議ではない。こういう感覚を彼らは三十代半ば過ぎまで、つまり1930年代の後半まで保ちつづけた。(『ロスト・ジェネレーション』7-9ページ)

自分を世代と、世代を時代とぴったり重ね合わせられると感じた世代。

――自分自身も多くの冒険に関わっていたから、少しはわが身についても語るつもりだったけれど、あくまでみなの身に起こっていたことの例証としてだった。(『ロスト・ジェネレーション』10ページ)

個人の体験が、世代の共通の体験の例証になる。「僕」は「彼ら」だ。

――いま考えてみると、そういう感じ方には十分な根拠がない。(…)だが他方で、根拠があやふやであったとはいえ、こういう感覚は彼らにとってそれ自体リアルなものだった。だからこそ彼らは、芸術家であれスポーツ選手であれ実業家であれ、とにかく同世代の誰もが秘密の使命をおびた同盟者であり、同じ歌と合言葉とを分かちあい、世間をまどわす偏狭な連中に対してともに抗う仲間どうしなのだ、と考えていたのである。(『ロスト・ジェネレーション』9-10ページ)

しかし「ロスト・ジェネレーション」という呼び名そのものは、もともとは外から貼り付けられたレッテルだ。

――「これがロスト・ジェネレーションってやつさ」。だが、この言葉は若者にも重宝された。彼らが成長し大学で学びはじめたのは、階級や土地の影響よりは、時代そのものがずっと重大だと思われていたような激動期である。いまやその彼らが、自分たちが古い作家たちとは無縁な、たがいに結託した仲間どうしだという気分を表明するスローガンを手にしたのだ。この標語では冠された形容詞よりも、「世代」という名詞のほうが肝心だった。「失われて」いようがいまいが、そんなことは後世が決めるだろう。(『ロスト・ジェネレーション』4ページ)

「失われた世代」?

――彼らは長いあいだガートルード・スタインが与えた「だめな(ロスト)世代」という形容が見合った世代とされていた。その理由を知るのはたやすい。彼らが奪われた(ロスト)世代であったのは、なによりまず、どんな宗教や伝統からも切り離され、そうなるべく教育され、ほとんど根無し草であったからだ。彼らが迷える(ロスト)世代であったのは、戦後にあらわれる新たな世界に備えるべく(また戦争のおかげで、もっぱら放浪と刺戟とを求めるよう)習い育ったからだ。彼らが喪失の(ロスト)世代であったのは、異郷の地で生きようとしたから、過去のどんな行動規範も受け入れなかったから、そしてまた社会における作家の位置づけについて、誤解を招きかねないイメージを形づくっていたからだ。この世代が生きていたのは、既存の価値を捨て、新たな価値をつくらなければならなかった過渡期である。(…)彼らはあらゆるものがもっと確かに感じられた少年時代への郷愁をいだきつづけた。(『ロスト・ジェネレーション』11ページ)

その故郷には、まだ、古きよきアメリカの風景が広がっていただろうか。

――出版業は金融機関や劇場と同じで、1900年以降になってから都市に集中しはじめていた。地方の伝統は消えてしまい、あらゆる地域社会が自動車や化粧石けん、既製の衣料品などが流通する巨大な全国市場にとりこまれつつあったのである。(…)彼らの子供時代は地域性よりは親の経済状態に左右されていたけれど、それすらも似たり寄ったりだった。(…)遊び相手もやはり中産階級だったから、彼らは自分たちが階級差とは無縁な、ひとつの大きな社会に属しているという幻想を抱いていたのである。(『ロスト・ジェネレーション』5-6ページ)

画一的な教育がそれに輪をかける。

――しばしばそんな気がするのだけれど、高校時代もその後も、大学にいたころも兵役に就いてからも、あの年月はすべて僕らが少しずつ「根無し草」になってゆくための過程だったのかもしれない。振り返れば僕らの受けたトレーニングはどれもこれも、いつのまにか僕らが故郷に生やした根っこをひきちぎり、地域や地方特有の習いを消し去り、僕らを安住の地をもたない世界市民にしたてあげようとしていたようだ。(『ロスト・ジェネレーション』36ページ)

「社会」はどうにかするには大きすぎた。

――この世界は、なにか僕らには知り得ない科学法則によって厳格にコントロールされ、僕らの人生は、僕らとはまるで縁遠いピューリタンの基準でみちびかれている。おかげで社会はおそろしく安全で、退屈かつ中産階級的、つまりは僕らが育った家庭環境そのものと化していた。社会は進歩という非人間的法則にしたがい、都市は年々休みなく拡大し、富は膨れあがり、街にはますます多くの自動車が姿をみせるようになる。そして人々は祖先たちよりどんどん賢く、どんどん善良になり――ついには愚直なる市民の住まう耐え難きユートピアが自動的に完成するわけだ。(『ロスト・ジェネレーション』25ページ)

彼らの子供時代は現代アメリカの幼少期、つづくカウリーの青春期に20世紀アメリカもまた青春を迎える。それにしても、描かれる光景はときおり、あまりに見憶えのある近い過去に思えはしないだろうか。

上の引用はまだいってみれば上映がはじまり舞台セットが浮かび出たところ、このあとに主人公たちの1920年代の冒険がはじまる。本のカバー写真はモンパルナスのカフェ・ドームだが、ダダに染まったカウリーはここから通りをはさんだカフェ・ロトンドを襲撃し、そして思いもかけず異郷の者でしかない自分に気づき帰還へと向かう。このイグザイルとリターンのモチーフがアナロジーとしていかに雄弁に物語を貫くかは、「訳者あとがき」に書きつくされている。カウリーの文章と、それを日本語に移した訳文とがいかほどの仕上がりかは先の引用でかいまみていただけたとおり。この本の魅力はとても紹介しきれない。まず手におとりいただけることを。

(つぎの本は現在品切です。お役に立てずおそれいりますが、もしよろしければ図書館などをご利用いただけましたら幸いです)
エドマンド・ウィルソン『フィンランド駅へ』上(岡本正明訳、みすず書房、1999年)
『20世紀の芸術と生きる――ペギー・グッゲンハイム自伝』(岩元巌訳、みすず書房、1994年)
ピエール・ナヴィル『超現実の時代』(家根谷泰史訳、みすず書房、1991年)



その他のトピックス