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『フロム・ヘル』

アラン・ムーア作 エディ・キャンベル画 柳下毅一郎訳 [全2巻]

『フロム・ヘル』は小社が初めて刊行する本格的なコミック作品です。今回あえて不慣れなジャンルの作品を刊行するのは、もちろん、いろいろな障害を乗り越えてでも出したい理由があるからです。作者のアラン・ムーアはコミック作家として作品ごとに新しい趣向を打ち出す革新性をもった作家で、アメリカン・コミックの分野に彼が投じた大傑作『ウォッチメン』はジャンル全体を変えたとも言われます。『フロム・ヘル』は『ウォッチメン』と並ぶムーアの最高傑作として評価されていますが、加えて特筆すべきは本作がアメリカン・コミックの枠からも外れた、インディペンデントな作品として発表されたものであるということです。

映画とも文芸とも違う、コミックというメディアでしかできない表現が、日本ほど質量ともに充実し、多様化し、技術的にも洗練をきわめている国はないでしょう。しかし生物進化と同様に、日本の漫画の進化もすべての可能性を含んではいないのかもしれません。日本の漫画とはまったく異なる方向の進化形だってありうるのかもしれない。『フロム・ヘル』はまさにそういう可能性の一つを見せてくれる作品なのです。

たとえばコマ割りについて見ると、日本の漫画はコマの大きさや形を操って、ときには大きなコマのダイナミックな構図に読者の視線を釘付けにし、あるいは小さくてイレギュラーな形のコマで視線を流れるように移動させ、シーンを疾走させるといった巧緻きわまりないテクニックで物語を動的に体感させてくれるという印象があります。
それと比較すると『フロム・ヘル』のコマ割りは、文芸作品で一行の文字数が決まっているのと同じように、コマの形や大きさがほとんど均一です。考えてみると文芸作品を読む際には、活字の大きさや行の長さが一定であるからこそ、読み手は一文の表す内容だけに依存して自分で視線をコントロールしています。一文を何度も読み返して考えたり、前後の行との間の“行間”を読み解いたりし、まったく同じ文章が物語全体の中の別々の箇所で繰り返されていたら、それらの箇所を結びつけるような物語の立体構造に気づきます。ムーアの作品はそれと同じような読まれ方をしたときに、最大の効果をあげるように描かれています。
誤解を恐れずに言えば、ムーアの手法は日本の漫画の手法にくらべて文芸作品に近い読み方をうながし、日本の漫画の手法はムーアの作品に比べて映画の画面に近いとらえかたをうながすという感触です。(そういう意味では、改行を多用して読者の視線移動のスピードを操るタイプの文芸作品は、日本の漫画のコマ割りに近い手法を使っていると言えるのかもしれません。)もちろんムーアの作品も別の角度から見ればむしろきわめて映画的ですし、日本の漫画の文学性も言うまでもなく広く認められているところで、上記は特定の側面だけ見た言い方になりますが、「異なる方向の進化形」を具体的にイメージしてもらうためにとりあげてみました。しかもコマ割りは、日本のコミックとムーアのコミックの違いの一例にすぎません。

ムーアの漫画も日本の漫画も、コミックならではの語りを志向している点では同じですが、その実現の方向は明らかに違っています。ぜひ、『フロム・ヘル』で見たこともないコミックの文法を発見してください。

日本では、わざわざ翻訳して紹介される海外コミックといえばスーパーヒーローが出てくるアメリカン・コミックか、啓蒙的なテーマの作品か、近々映画化されて映画絡みのパブリシティーが期待できるといった、“特殊”枠の作品ばかりだという印象があります。これはもちろん、国内のコミック文化がそれだけ充実しているためでもあるでしょうし、日本のコミックの文法がそれだけ広く読まれるための洗練を究めていることの裏返しでもあるでしょう。
しかし日本の漫画作家とはまったく志向の違う海外のコミック作家のなかにも優れた創作力をもった作家がいることは紛れもないことで、彼らの作品がむしろ日本へは紹介しにくいとしたら、それはどこかしらいびつなことではないでしょうか。この国には、どんなに型破りなコミックでも難なく読みこなす力のある読者が、おそろしくたくさんいて、野心的な作品を待っているというのに。
海外作品が真のインパクトをもって受け止められるためには、“特殊”なマーケットの型にはおさまらない作品が、日本の漫画と同じように純粋なエンターテインメントの土俵の上で、日本の読者に認められる必要があるでしょう。コミック文法の違いを越えて、読者を圧倒するパワーをもつ『フロム・ヘル』は、その意味のチャレンジを託すにふさわしい一作です。




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