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佐々木幹郎『瓦礫の下から唄が聴こえる』

山小屋便り

「わたしはちょうど万年筆にインクを入れている最中だった。あわててインク壜の蓋を締めたとき、1、2秒後に底からぐんと突き上げるような強い揺れがあった。それから、いままで経験したことのない揺れが続いた。おお、ついに東京直下型の地震が来たか。これがそうなのか。
頭上の棚から本が落ち続け、左右に積み重ねていた本や資料の束が崩れた。わたしは身動きが取れなくなって、机の上のパソコンが倒れないよう両手で押さえているだけだった。続いて強い余震。そのあいまをぬってベランダに出ると、東京湾の方角に黒い煙が立ち上っていた。湾岸のお台場で火事が起こったのだ。続いて、その後ろから白い煙が空高く上った。テレビによると、千葉県市原市にある石油製油所の液化石油ガス(LPG)のタンクが炎上したのだ(火災はこのあと十日間続いた)。ただごとならぬ事態に陥ったということがよくわかった。東北の港が津波に襲われて、船が堤防を乗り越え、家々が流されている映像がテレビに流れはじめた。なんということだろう。しかし、まだわたしのなかでは〈よそごと〉だった」
(本書「祈りとエロスと生命力と」より)

東日本大震災発生の当日、著者は東京の自宅にいた。そしてその後間もなく書かれたこのエッセイにおいて、福島第1原発による放射能汚染によって東京も徐々に「〈よそごと〉ではなくなる状況」に陥りつつあると感じながら、直観的に「揺れの直後に感じていた〈よそごと〉の感覚」のほうに信頼を寄せて、こう続けている。

「わたしは、この〈よそごと〉の感覚が、いま大事だと思っている。〈死ぬのは他人ばかり〉と言ったのは寺山修司だった。ここから人間の問題を考えたい。〈よそごと〉であるからこそ、被災者とともに揺れることができるかどうか。苦難のそばに寄り添い見守ることができるかどうか。そのことを問われているのが、いまであり、そしてこれからの長い時間なのだ」

情報と知覚とがますます乖離した3・11以後の日常にあって、詩と歌、表現はどのようなものでありうるのか。そして「東北」はどのように語られるのか。本書は東京のみならず週末を過ごす群馬の山小屋で、また訪れた気仙沼、釜石、大船渡、陸前高田などで被災者の具体的な声を受けとめつつ、詩人が「素手で言葉に」向かい思索を重ねた震災後1年間の記録である。




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