みすず書房

フランクル『夜と霧』から (5)

2013年夏の読書のご案内

2013.08.27

マグダ・オランデール=ラフォン『四つの小さなパン切れ』と、語り伝えるということ

精神科医ヴィクトール・フランクルが、ナチス・ドイツの強制収容所に囚われたみずからの体験をつづり、極限状況におかれた人間の尊厳の姿を余すところなく描いた『夜と霧』。世紀をこえ、世代をこえて、読み返され、読みつがれています。

『夜と霧』霜山徳爾訳

夏休みの青少年読書感想文全国コンクールにも、おもに高等学校の部の自由図書に毎年のように選ばれ、そこから年々すばらしい作品が生みだされています。昨年はNHK Eテレ(教育)「100分 de 名著」にとりあげられて放送、再放送が重ねられ、あらためて大きな反響がよびおこされました。

『夜と霧』には、池田香代子訳と霜山徳爾訳のふたつの版があります。両方が並行して版を重ねるというたいへん異例の出版です。池田香代子訳の「新版」は2002年の刊行ですが、これをきっかけに新旧の翻訳のどちらにもあらためて讃辞が寄せられるという予想しない出来事が起こったからです。
2002年の新版は、この永遠の名著を21世紀の若い読者にも伝えつづけたいという願いから生まれました。フランクル自身が大幅な改訂をほどこした1977年のドイツ語版にもとづく、真新しい翻訳です。いっぽう霜山徳爾訳は、終戦から11年めだった1956年夏の初版以来、日本でながく読みつがれてきました。当時、ホロコースト(ショアー)やアウシュヴィッツのことはまだよく知られていませんでしたので、ドイツ語版にはない解説や写真資料を日本で独自に加えて編集されました。どちらの版にも愛読者がいらっしゃいます。切々と思いをこめたお声を、小社もたびたびおきかせいただくことがあります。

2007年以来、『夜と霧』から読み広げる読書案内を考えてきました。今年は、この春あたらしく刊行された一冊を中心に、昨年までのテーマと重なりあうところもありますが、体験を語り伝えるということについてあらためて思いをめぐらしたいと思います。

マグダ・オランデール=ラフォン『四つの小さなパン切れ』(高橋啓訳)は二部構成で、前半の「時のみちすじ」がまず先に1977年に、小さな本になってフランスで出版されました。そのとき、周囲のひとはたいへん驚いたといいます。いつもほほえみをたやさない明るいマグダさんが、こんな体験をしていたなんて。

ハンガリーにいたマグダは、1944年、16歳のときアウシュヴィッツに連行されました。収容所に到着してふと気づくと、一緒にいた母と妹の姿はありませんでした。監視人はそっけなく、「煙突を見ろ。みんなもう、あの中だ」といったそうです。
収容所での過酷な日々、ある日、瀕死の女性が、手のひらに黴びたパンの切れはしをのせてマグダに合図をおくりました。「あんたは若いんだから、ここで起こったことを証言するために生きておくれ」。

マグダは生きのびて、解放後フランスに移住します。それから『時のみちすじ』が刊行されるまでに、30年の月日が流れています。30年のあいだ沈黙していたマグダは、出版をきっかけにして、中学生や高校生にみずからの体験を語り伝える活動をはじめました。自分が収容所に入れられたのと同じ年頃の若いひとたちと対話するうちに、マグダはふたたび書き始めます。そうして生まれた「闇から光へ」が、前半部とあわせてこの『四つの小さなパン切れ』という本のかたちになってフランスで出版されたのは、つい昨年のことなのです。マグダさんは、今年86歳。

「俺の中のビキニ事件はまだ終わっていない」。第五福竜丸の乗組員のひとりだった大石又七は、全国各地の小中学校や高校をめぐって、体験を語りつづけています。大石又七『ビキニ事件の真実』は、その講演を聴くようにして読むことができます。

1945年8月6日、世界で一つめの原子爆弾「リトルボーイ」広島に投下。8月9日、二つめの原子爆弾「ファットマン」長崎に投下。この時点で世界には三個しか原爆は製造されていず、8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏します。しかし、終戦後たちまちアメリカとソ連の冷戦がはじまり、「鉄のカーテン」の両側で核兵器の開発競争が進められます。1954年3月1日、太平洋ビキニ環礁近くの海でマグロ漁をしていた静岡県焼津港出港の遠洋漁船、第五福竜丸の乗組員は、強烈な光を目にして「西から太陽が上がってきた」と驚くうち、轟音に包まれ、しばらくして真っ白な「死の灰」が降ってきました。アメリカの水爆実験で被爆したのです。
事件の始まりから今日までを一人称「俺」で語りとおし、事件の全貌を伝える本です。

一昨年夏刊行の宮田昇『敗戦三十三回忌――予科練の過去を歩く』は、もともと、公表するつもりなしに書かれたものでした。敗戦から33年めの1977年は、著者にとっては、若くして亡くなった長姉の三十三回忌の年でした。著者は思い立って、予科練の足跡をたどる旅に出ます。

1944年3月末、15歳の宮田少年は「予科練」、甲種飛行予科練習生第14期に志願して入隊します。それから敗戦まで約一年半の戦争体験は何だったのか、過去と対話する旅でした。敗戦間近、予科練は飛行練習どころか飛行機はもう残っていません。しかし、そんなことは知らず、少年たちは見送りをうけて夜の品川駅から長い軍用列車に積まれ、やがて空が白むころ、車窓から見えるのは入隊先と決められていた三重のあたりの風景ではありませんでした。宗教施設を徴用した、兵舎とは似ても似つかない代用の建物に詰め込まれたとき、帝国海軍の「精鋭」だったはずの少年兵たちは、このさき誇りを無残に踏みにじられてゆく予感をつきつけられるのです。

旅から一、二年して、著者は友人から記録を文章にまとめておくよう勧められ、書き上げてごく親しい知人にだけコピーを配ったといいます。もし公表するとしても自分の死後の香典返しのときだと、著者はずっと考えていたそうです。ところが、戦後の年月をへて、実体験のなさからくる事実認識のずれと、記憶の風化とが気になり、公表の意味を考えるようになったといいます。東日本大震災がまたも戦争の体験を語ることをためらわせますが、つづく複合災害が著者に新しい見通しを与えたといいます。それらの思いが「あとがき」にくわしく綴られています。

昨年刊行のグードルン・パウゼヴァング『そこに僕らは居合わせた』(高田ゆみ子訳)は、十代の少年少女の目に映ったナチス・ドイツの時代を伝える、20の物語をおさめています。パウゼヴァングは、自分が少女として体験した時代の真実を語るために、文学的なフィクションというかたちを選びました。ひとつひとつはたいへん短い20の物語はどれも、戦後60年をへて、心の痛みをおして、ようやく語りだされたものです。
パウゼヴァングは17歳で終戦をむかえました。戦中は軍国少女になり、戦後になって価値の180度の転換を迫られた自分たちの世代は、遠からず世を去らなくてはならないのをパウゼヴァングは知っています。だからこそ、真実の証言を若いひとに伝えなくてはならない。自分自身の体験や、見聞きしたエピソードが、この本では短いおはなしのかたちをとって語られているのです。

語り伝えるということ。あまりにも過酷で、あまりにも重い体験を語り伝えるには、長い年月の経過や、さまざまの語り方や、そして聴き手の存在などがかかわっていることをしみじみと考えさせられます。

フランクル『夜と霧』[新版]池田香代子訳 カバー

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