みすず書房

G・アガンベン『いと高き貧しさ』

修道院規則と生の形式 上村忠男・太田綾子訳

2014.10.27

〈生の形式〉、すなわち、法権利の獲得から完全に解放された人間的な生のあり方や、所有となって実体化されることのない物と世界の使用のあり方を考えることはどのようにすれば可能か…
(本書、序文より)

訳者解説によれば、すでに1993年にフランスの雑誌『フュチュール・アンテリュール』に掲載されたアガンベンの論考のタイトルが〈生の形式〉(forme-de-vie)であった。
アガンベンはその中で、「国家という形態をとらない政治の可能性についての問いは、必然的につぎのかたち、すなわち、今日、〈生の形式〉といったようなもの、それを生きるなかで生きることそのものが問題となるような生、潜勢力をもった生は可能なのだろうか、というかたちをとる」と書きながら、この20年間、〈生の形式〉について具体的に言及したことはなかった。それが本書では、真正面から取り組まれたのである。

天のもとには自分のものをなにひとつ所有していないということが、小さき兄弟たち(フランシスコ会士)の所有物である。
移ろいゆくもののうちにはなにひとつ権利をもたないということが権利である。
(13世紀のフランシスコ会士、ディーニュのフーゴー)

第三部〈生の形式〉は、異端認定と背中合わせであったフランシスコ会修道士たちの命がけの論争を追う。
アッシジのフランチェスコ(1181/2-1226)の没後ほぼ百年、エーコ『薔薇の名前』の舞台と同じ教皇ヨハネス22世の時代、放浪する托鉢修道士の小さなグループから始まったフランシスコ会は強大な修道会となっていた。内部では「貧しさ」をめぐって、主流のコンヴェンツァル派(修道制派)と極端な厳格主義のスピリトゥアル派(精霊派)との論争が煮えたぎっていた。しかしながら両派とも、「法権利の外において人間として生きていく」「所有せずとも使用する(すべては神のものなのだから)」ことは大原則であった。
1322年、教皇ヨハネス22世は勅書によってフランシスコ会を一刀両断にする。「使用は所有と不可分である」としたのだ。そして教皇は使用と消費を徹底的に対置させることで、図らずものちの大量消費社会の基本形式を予言していた。すなわち、「たんなる使用」はけっしてありえないこと、および、濫用は所有権を前提としていること。
たとえば飲食であれ、バスの乗車券であれ、われわれはなんらかのかたちで所有しなければ、消費できない。また、いったん自分のものになったものは、あらゆる濫用が想定される、ということだ。

もし規則が生と余すところなく混ざり合っているようにみえるとしたなら、規則とは何であるのか。また、人間の生がもはや規則と区別されえないとしたなら、人間の生とは何であるのか。
(本書、第一部「規則と生」)

アガンベンが「規則ある生」である〈生のかたち〉の典型として、修道士たちを問題とした意味が、深まる謎のように全編に流れている。
「生政治」にも抗う〈生のかたち〉とは? 編集中に出会った姿(イメージ)がひとつある。
スピリトゥアル派は教皇庁により弾圧されるが、コンヴェンツァル派は改革運動をへて16世紀にコンベンツアル聖フランシスコ修道会となり、1930年、マキシミリアノ・コルベ神父(1894-1941)とともに長崎に上陸を果たす。コルベ神父は1936年にポーランドに帰国、41年アウシュヴィッツに送られ、選別された者の身代わりになって餓死室に下り、2週間たっても最後まで死ななかったため、注射を打たれて絶命する。


長崎をめざし、マルセイユを出発するコルベ神父一行
中央がコルベ神父。その左がのちに戦後の焼け跡で活動したゼノ修道士。1930年

修道士たちの「貧しさ」は、絶滅収容所にも耐えられるようなものだったのかと想う。フランチェスコと兄弟たちが従ったイエスの「貧しさ」とは、アウシュヴィッツに通じる貧しさだったのだと。アガンベンが本書で探求した「生と規則が次第に区別をなくしていく閾」を、他人の身代わりとなった人もまた越えたのだろうか。