みすず書房

『システィーナの聖母』

ワシーリー・グロスマン後期作品集 齋藤紘一訳

2015.05.26

5月は終わらない。5月の風と新緑を愛し、今月3日に亡くなった詩人の詩の引用から始めたい。

書かれた文字だけが本ではない。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
長田弘『世界は一冊の本』

本を読もう。もっと本を読もう。もっともっと本を読もう。と書いた無類の本読み詩人は、40年以上前に「現代ロシヤ抵抗論集」の一冊として勁草書房から翻訳出版されたワシーリー・グロスマンの『万物は流転する…』を読んでいて、グロスマンの他の作品が日本語になることを知って、よろこんでくださった。

グロスマンのアルメニア旅行記は、『人生と運命』の原稿類一切合財がKGBの家宅捜索で没収された1961年の末に、仕事がなくなり、社会からはじきだされ、経済的に困窮したグロスマンが、友人にアルメニア語の小説の翻訳を紹介され、2か月間、出かけたときのものだ。死の2年半前になる。
ユダヤ人だけれども、信仰も慣習もないもたないグロスマンは、ソヴィエト市民というアイデンティティを保持してきながら、晩年、次第にユダヤ性あるいは宗教的なものへの思索を深めていく。

「真の善意は、形式や形式的なものとは無縁である。儀式や聖像として具象化することには無関心である。ドグマでその身を固めようとはしない。
すなわち、それは、善良で人間的な心のあるところにあるのである。異教徒の善良さ、信徒でない人間や無神論者による慈悲心の発露、異教を信じている人の温厚さといったものに」

アルメニアはノアの方舟がたどり着いたアララト山を仰ぎ、301年、世界で最初にキリスト教を国教にした土地である。アルメニアの簡素で完成された教会建築(「高い完成度とは、目指すものへの最短距離、…もっともわかりやすい表現のことである」)に感嘆したあと、グロスマンはアルメニア教会の総主教に面会し、告白する。

セヴァン湖に浮かぶ聖十字架教会
「できれば本というものが、無駄を削り表現性豊かに建てられたこれらの教会のようであってほしい。できればそれぞれの本の中に、教会でのように神が住んでいてほしい」

この言葉は、総主教にはまったく届かなかった。
だが、「世界は一冊の本」という日本の詩集の名を伝えたら、グロスマンはほほえんでくれただろうか。

*  *  *

本書はスターリンの死(1953年)以降に執筆された短篇小説、随想・旅行記を初集成する。
ヒロシマに原爆を投下したアメリカ人パイロット(「アベル」)、ドイツ人動物園飼育員とゴリラ(「動物園」)、イタリア軍で四輪荷車をひくラバ(「道」)、スターリン体制下の大粛清の総元締めエジョフの養女(『母』)、両親との距離を感じはじめた9歳の少女(「大環状道路で」)などを主人公にした多様性が、グロスマンの文学世界をかたちづくる。

「人間によって創られたものの多くは、その繊細さ、壮麗さ、豊かさ、複雑さ、大胆さ、豪華さ、華麗さ、優雅さ、知恵、詩情で、子孫を驚嘆させる」
(「あなた方に幸あれ!」)

──ワシーリー・グロスマン、あなたの作品もまた。
日の光りのような、日々を輝かす省察に出会う一冊。

  • 続刊『トレブリンカの地獄――ワシーリー・グロスマン前期作品集』赤尾光春・中村唯史訳は来春刊行予定です