みすず書房

ジャン・ドゥーシュ『進化する遺伝子概念』

佐藤直樹訳

2015.10.14

訳者の佐藤直樹先生に、本書の各章と各項目についての解説・要約をご執筆いただきました。

本書『進化する遺伝子概念』を読むための手がかり

佐藤直樹

遺伝学という言葉を聞くと、すぐにATGCというDNAの塩基を思い浮かべる人も多いですが、本書は、そうした先入観なしに読み始めていただきたいと思います。「遺伝子」という言葉ができる以前から、人々は遺伝現象について何らかの考えを持っていたはずです。それは現代の一般人のもつ遺伝というイメージとも近いかも知れません。
本書は、そうした普通の人のものの見方からはじめて、遺伝現象に人々が次第に注目していった歴史、そして遺伝子の発見、さらに分子生物学の発展へと向かっていきます。普通の科学史なら、これですべて解明されて「めでたしめでたし」となるところでしょうが、著者はさらに疑問を発し続けるのです。その意味では結論のない話のように思えるかもしれません。しかし、歴史そのものにも結論はないということを考えれば、結論は読者にゆだねられているというべきでしょう。
本書を読むための手がかりとなるように、各章の内容を簡単にまとめて、読者の便に供することにします。

第1章 遺伝子概念以前

1. ギリシア時代から始まり、アリストテレスやデカルトが、遺伝現象と前成説との関係、獲得形質、自然発生、発酵、精子などについて考えたことが説明されています。最初は生物発生という曖昧な概念で、受精、遺伝、発生もまとめて繁殖として捉えられていました。ビュフォンの種概念や内的鋳型、モーペルチュイの遺伝病家系調査などが紹介されています。ジャコブによれば、この内的鋳型は、後の「DNA=遺伝子」という概念として甦ることになります。

2. ここでは雑種形成に関するさまざまな学説が紹介されています。前成説とは、卵または精子のなかに最初から次の世代の子供のミニチュアが入っているという考えで、それでは子供に両親の形質が伝わるはずがありませんでした。ケールロイターが遺伝における両親の寄与を証明し、前成説を否定しました。
興味深いことに、メンデル以前にもメンデルの法則に肉薄した研究者がいました。たとえばノダンは、分離の法則を知っていたと考えられます。ダーウィンも掛け合わせ実験をしたことはあまり知られていませんが、ほぼ3:1の分離比を得ながら、メンデルの法則に気づかず、代わりにジェミュールによる形質の伝達を考え、パンゲネシス説を唱えたのです。ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴールトンは量的遺伝に関心をもち、祖先返りの法則を唱えました。

3. メンデルの法則が20世紀に確立される際には、それまでのいろいろな研究の成果が生きています。この項では、そうした背景となる関連研究が紹介されています。染色体の観察による減数分裂の発見は、メンデル以後の発見ですが、再発見が認容されるために重要な根拠となりました。ド・フリースがパンゲネシス説に沿って遺伝を担う粒子をとらえたことは、メンデルの法則再発見を容易にしたと考えられます。ヴァイスマンの生殖質説と獲得形質遺伝の否定も、遺伝に関する重要な学説でしたが、彼はビオフォア説によって形質伝達を説明していました。この説も考えようによっては、メンデルの考えに近いものでした。ミーシャーによるDNA発見もこの時期になされましたが、遺伝現象とは結びつけられませんでした。今から見ると奇妙かも知れませんが、「形質の安定性と細胞分化との矛盾」をどう解決するかが、当時、大きな問題となっており、そのために発生学と遺伝学が対立しました。

第2章 遺伝子概念の誕生:シンボルとしての遺伝子

1. この項は、メンデルの研究が詳しく紹介されている本書の第一の山です。メンデルの新しさは、均質な系統の使用、優性/劣性の区別、形質と因子の区別などです。メンデルの方法論には5つの新奇性があると著者は言います。とくに、減数分裂が発見される前に、因子の均等分配を考えたこと、つまりシンボルとして遺伝子を考えたことが画期的だったと考えられます。しかしメンデル自身、ネーゲリのすすめで別の植物について調べた結果、アポミクシスのためにまったく違う結果を得ることとなり、それが原因で、遺伝の研究をやめてしまったようです。最悪の材料で検証実験をしてしまったのです。

2. メンデルの法則の再発見の経緯が述べられています。コレンスが最初に「メンデルの法則」という言葉を使ったそうです。再発見で知られる三人よりも、ベイトソンというイギリスの遺伝学者がメンデルの法則の普及には重要な役割を果たし、対立遺伝子、ホモ接合体などの言葉を作りました。「遺伝子」はヨハンセンが、以前の「パンゲン」から作り出した言葉でした。本項ではさらに、表現型と遺伝子型の区別の重要性が述べられています。当時まだ、ダーウィン論者と遺伝学は対立していました。変異は本来、選択以前から存在していますが、選択が変異を生むと誤解されていました。

3. 単位形質と呼ばれる不適切な概念の導入により、遺伝学に混乱が起きました。ひとまとまりの形質を遺伝の単位と考えることにより、形質と因子の区別があいまいになってしまいました。

4. 「シンボルとしての遺伝子」を使うことにより、遺伝学を数理的に取り扱うことができるようになり、これに基づく集団遺伝学が誕生しました。ハーディ・ワインベルクの法則の定式化などが有名です。ここでは、フィッシャーの参入と優生学の関係についても触れられています。ドブジャンスキーらによる総合説の定式化により、遺伝と進化の概念が統一されたことが重要な進歩です。その後、木村資生の中立説も生まれることになりますが、それはずっと先の話になります。

第3章 染色体上の遺伝子

1. ここで述べられるモーガン学派の遺伝学と遺伝子地図が本書の第二の山です。ショウジョウバエという材料選択の成功によって、大量の変異体を取得し、同時に、組換え現象と連鎖を発見し、遺伝子地図を作ることができました。しかし後になってみると、これらは主にトランスポゾンの転移によるもので、通常の点変異ではありませんでした。それでもこのように高速で変異を単離できたことが、遺伝学の発展を助けました。その後、X線による変異誘発の発見があり、これも新たなツールとなりました。この時期に、唾腺染色体の顕微鏡観察と遺伝子地図の対応付けができるようになり、染色体地図の信憑性が確立しました。こうして、「染色体上の原子」としての遺伝子概念が生まれました。

2. ところが、モーガン自身の研究によって、彼の遺伝子概念は揺らぐことになるのです。white遺伝子の多数の変異を、一つの遺伝子の変異と考えるのか、偽対立遺伝子と考えるのかという矛盾が露呈しました。さらに、変異を同じ染色体にもつか、別の染色体にもつか、ということによる掛け合わせの結果の相違(位置効果)が発見されました。一方で、マクリントックによるトランスポゾンの発見によって、「安定した遺伝子」という概念も揺らぐことになりました。

3. 遺伝子には二つの機能があります。自己触媒的な機能と細胞成分合成の触媒という機能です。ここでは後者に関して議論されています。ショウジョウバエの赤目を生み出す二つの遺伝子vcnが、一連の代謝反応の二つの段階を触媒する酵素の遺伝子であると判明しました。これを発展させたアカパンカビでの研究により、1遺伝子-1酵素説が確立しました。同じことはヒトの先天性代謝異常でも確認されました。

4. これまでは目に見える動植物が研究対象でしたが、いよいよ単細胞真核生物や原核生物も遺伝学の研究材料となりました。パスツール研究所ではバクテリオファージの研究が始まり、デルブリュックがファージ研究グループを創立しました。原核生物でも組換えが発見されました。変異が選択と無関係に生じていることの証明が、細菌を使って行われました。肺炎菌による形質転換の実験や、ハーシー・チェイスの実験による遺伝物質としてのDNAの証明が行われましたが、容易には受け入れられませんでした。

5. シス・トランス相補性検定が導入され、遺伝子には3通りの定義があることが明確になりました。(1)変異の単位 (2)機能的な単位 (3)組換えの単位。なお、シス・トランス検定でわかるのは(2)に相当します。これらは必ずしも一致しません。ベンザーによるT4ファージのrII変異の詳しい解析が行われ、高精度な遺伝子地図が作られました。大量の変異は、シス・トランス相補性検定により、二つの相補性グループに分類されました。これらが異なる機能単位、つまりシストロンに相当することになります。こうして、遺伝子は点ではなく、「領域」となりました。

第4章 分子レベルの遺伝子

1. 本項は、分子レベルでの遺伝子概念が紹介される、本書全体の大きな山場です。分子生物学のさまざまな概念が、まとめて出てきます。シュレーディンガーが考えた非周期的結晶としての染色体概念が、その後の分子生物学への道を拓きました。これはプログラムをイメージしており、遺伝情報という概念につながりました。
一方で、エイブリー、シャルガフなどの業績をもとに、DNAの二重らせんモデルが提唱されました。しかし依然として、遺伝子と形質との対応は謎のままでした。クリックによるアダプター説、コドン単位の確定と遺伝暗号解読などを経て、セントラルドグマが提唱され、情報の単位としての遺伝子概念が誕生しました。

2. もう一つの重要な分子生物学概念、すなわち遺伝子発現の調節が紹介されています。ジャコブとモノーによるオペロン説の提唱により、発現という概念、構造遺伝子と調節遺伝子の区別などが導入されました。制御系自体が遺伝的に決められていることから、発生学を遺伝子で理解できる可能性が生まれたのです。オペロンのカスケードや遺伝的プログラムとしてのゲノムを考えるのは、少し前に現れたサイバネティクスに基づいていました。ところが、ファージの溶菌化と溶原化の選択に見られるように、プログラムは絶対的なものではなく、不確定性もあるのです。その意味で、プログラムという遺伝子概念は万能ではなかったのです。
しかし、新しい遺伝子概念により、遺伝子発現と環境との繋がりが理解されるようになりました。一方で、非コード領域も遺伝子になり得るという点で、遺伝子概念そのものが困難になりはじめる第一歩となりました。

3. 真核多細胞生物のモデルとして、線虫を使った遺伝学も開始されました。ショウジョウバエにおけるホメオティック変異の解析から、遺伝子カスケードによる発生学の理解へと進んでいきました。ホメオボックス遺伝子の普遍性から、キャロルによる「遺伝子ツールキットによる発生の理解」、さらにエボ・デボという総合説の新しい展開が始まりました。

4. 制限酵素とリガーゼの発見により、遺伝子クローニングや遺伝子組換え実験が可能になり、組換え生物が作られました。この項では、PCR技術の発明、古細菌の提唱、バイオテクノロジー、などについて述べられています。これらにより、合成生物学の誕生、人工ゲノム、遺伝子のブリコラージュ、などへと進むことになります。

第5章 遺伝子の分子的概念の今日的危機

1. 本項では、分子生物学の新たな問題点が示されています。現在までに新たな発見が数多く示されています。イントロンとエキソンの発見とスプライシングのしくみの解明、選択スプライシングによる多数のタンパク質の合成可能性のほか、複数の転写開始点などにより、1遺伝子-1酵素説は破綻します。RNA編集の発見により、情報をもつのがDNAだけではなくなります。アロステリック変化の発見により、タンパク質の構造が一つに決まっていないことが示され、分子シャペロンの役割が知られるようになります。プリオンの発見によって、タンパク質構造の複雑さがさらに増していきました。ゲノム構造の解析により、トランスポゾンが制御にもはたらくことがわかってきました。これらを通じて、遺伝子概念、とくにその境界があいまいになりました。

2. 21世紀に入ると、新型シーケンサによりゲノムの解読が加速されました。ヒトゲノムの遺伝子の数は2万から2.5万個しかないことがわかりました。また、コード領域は全ゲノムの5%で、ヒトとチンパンジーの差は2%だけしかないことなども判明しました。しかし、非コード領域にも必要性があり、そこではDNAが立体的にとる形が発現において重要と考えられるのです。つまり、デジタル的だけではなく、アナログ的なシグナルも重要であると考えられるようになりました。

3. 逆転写酵素の発見は、セントラルドグマに反するものでした。これはテロメラーゼにも含まれ、例外的なものではありません。これに加えて、小さな制御RNAやRNA干渉が次々と発見されました。さらに、非コード領域からも巨大RNAが転写されており、遺伝子間領域にもRNAポリメラーゼが結合していることがわかりました。こうなると、遺伝情報はDNAだけでなくRNAにも依存していることになりました。

4. 本項では、エピジェネティクスについて述べられています。DNAは単独ではなく、ヒストンとともにヌクレオソームをつくり、最終的にクロマチン構造をつくっていますが、細胞周期によって凝縮は変化します。クロマチンの状態(開いた状態と閉じた状態)は、転写に影響しており、これはヒストンの修飾によります。ヒストン・コードという言葉も使われます。こうして、エピジェネティックな伝達、つまり、DNAの塩基配列の変化を伴わない形質の伝達が知られるようになりました。エピジェネティクスのしくみにはさまざまなものがあり、まだ研究が進行しています。

第6章 あらためて遺伝子と遺伝情報を考える

コード領域だけを遺伝子とするこれまでの遺伝子概念はすでに古くなっているという著者の考え方が披露され、ではどう考えたらよいのか、という問題が議論されています。

コード領域はデジタルコードですが、デジタルではないさまざまなコードもあると考えられます。遺伝子概念を捨てるべきかという問いに対し、著者は、遺伝子概念は必要であると主張しています。なぜなら、メンデル以来の形質と因子の区別、つまり、表現型と遺伝子型、形態と情報の区別は必要だからです。情報に関するシャノンの理論はメッセージの理論にすぎないと、著者は考えます。情報がもつ意味が生物学には重要で、それを情報と呼ぶならば、それを伝えるシグナルはメッセージとなります。生物では、転写・翻訳装置によってメッセージが解釈され情報となるのです。

さらに、誰がメッセージを書き込んだのかという問題が残ります。生物とコンピュータは異なっており、生物の場合、進化の過程で繰り返されたトライアンドエラーにより、メッセージができたと考えられます。つまり、選択がメッセージを書き込んだともいえます。

そこで著者は、遺伝子の拡張概念を提唱します。「遺伝子とは、記号的 かつ/または アナログ的なタイプのメッセージで、クロマチンの核酸やタンパク質に書き込まれており、細胞から細胞へ、また、世代から世代へと伝達され、細胞や個体のもつ性質に基づいて解釈されることにより、生物の形を作り出すことを可能にする情報となるものである。」

copyright Sato Naoki 2015