みすず書房

昔遠くの国へ出稼ぎに行った気の毒な人びとのお話ではなく「私たちの物語」として

根川幸男『ブラジル日系移民の教育史』

2016.10.26

「自著を語る」 著者からひとこと

根川幸男

BRICSの一角として大国化が世界の耳目を集めたのもつかの間、経済状態が悪化し、ワールドカップに続き、オリンピック・パラリンピック、その途上で大統領罷免、警官ストというようなジェットコースターのように急展開するブラジル…そこに、「保証付き(ガランチード)」と呼ばれ、自称したりする日本人(ジャポネス)という人びとがいます。日本人が海を渡って行って、そういう評価を受けたのです。この研究は、それは何故?という疑問から発起しました。

地球の70パーセントは海洋だといわれています。特に、私たちの住む日本列島は海に囲まれ、どこか外国に行くときは必ず海を渡らなければなりませんでした。そうした極東の島国から地球の反対側のブラジルに2ケ月もかけて移民するなんて、奇跡のようなことではなかったでしょうか。20世紀の初めごろ、最初にかの地に渡った人びとは3-4年で行李一杯のお金を稼いで帰って来るつもりでした。

しかし、その多くは故郷に帰ることなく、人びとはかの地で子を生み育て、やがて学校をつくって教育をはじめました。ブラジルに渡ったのは、日本人だけではありません。ブラジルはコーヒーの国。彼らの多くが働いたコーヒー農場には、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、シリア人などがいました。彼らはこうした多民族(マルチ・エスニック)社会に放り込まれ、自分たちが「日本人であること」を自覚しないわけにはいきませんでした。子どもたちが読み書きも知らずに裸足で走り回っているのを見て、帰国後のことも思いやられました。「これではいかん」ということで、学校をつくって教育をはじめました。

ブラジル日系人の方々にこうしたお話を聞きはじめて、もう二十年になりますが、海を渡った異郷で我が道を切り拓いてきた人間の物語は、ただただ面白く私を魅了するものでした。日本人がサンパウロ州奥地にどんどん学校をつくっていた1920年代、そこはまだ密林を切り拓いた境界(フロンティア)で、子どもたちが「教育勅語」を暗唱していた傍らには、拳銃を腰に下げたお兄さんや大鉈(ファッコン)を手にしたおじさん、頭に洗濯物を載せた女性たちが行き交っていたのです。また、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ…」とやった後、ブラジル人の先生が来て「ボン・ジア、ジェンチ…」とポルトガル語の授業をはじめました。同じ教育を移植したつもりでも、子どもたちの体験は、日本のそれとおよそ違ったものになったのです。しかし、それは確かに、私たちが歩んできた道の延長上にありました。

こうした意味で、海外移民とその子弟教育というのは、私たち日本人の国民的体験でした。19-20世紀が「移民の世紀」だったことを考えると、全人類的体験といえるかもしれません。本書は、そうしたブラジル日系移民とその子孫たちの「教育の歴史」の素描です。欲張って書いていると、予想以上の大部になってしまいました。昔貧しいゆえに遠くの国へ出稼ぎに行った気の毒な人びとのお話ではなく、「私たちの物語」として、日本、ブラジル、そして世界の多くの皆さんに読んでいただきたいと思います。

2016年10月23日
copyright Negawa Sachio 2016