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2017.02.16トピックス

[新訳]ロラン・バルト『テクストの楽しみ』 「訳者解説」より抜粋

鈴村和成訳

訳者解説

――演者としてのロラン・バルト(抄)
鈴村和成

本書はロラン・バルトが1973年にスイユ社から出した主著――Roland Barthes, Le plaisir du texte, Seuil, 1973――の新訳である。

1972-3年はバルトにとって画期的な年だった。
彼は本を刊行することをもって人生に区切りをつける、その意味で書物と生が絡みあい、「ロラン・バルト」という多彩で雑色、古代ギリシャ語にいう〈ポイキロス(雑多な、多彩な、斑点のある)〉のパッチワーク、つぎはぎだらけのアルルカンの衣装を織りあげるような生涯を送った人だったが、いまここで『テクストの楽しみ』(と、それの書かれた年)を画期的であるというのは、――最新のティフェーヌ・サモヨーの伝記『ロラン・バルト』(2015年)によれば「転回点」、エレーヌ・シクスーによれば「検閲の解除」となった一書――この本で初めて彼は、ある主題について論じる、という従来の論考のスタイルを棄て、いうならば捨身の(裸身の)スタンスをとったからである。

(中略)

『バルトによるバルト』でRB(ロラン・バルト)がみずからの知の遍歴を四つの位相に分類し、本書『テクストの楽しみ』をモラリティのフェイズに位置づけことはよく知られている。ジャン=クロード・ミルネールの『ロラン・バルトの哲学的歩み』(2003年)によれば、「〈記号〉の幾何学は支配力を失った。しかしこれ[記号の幾何学]は、新しい主人、すなわち〈楽しみ〉の意のままになりながら、役に立つ召使いでありつづける」ということである。
「モラリティmoralité」は一般に「道徳性」と訳されるが、分類者本人(RB)の注解によれば、モラルとはまったくの別物であり、「言語の状態にある身体の思考」といわれる。てっとり早くいえば、書く人の身体をモラル(精神)のレベルで考える、ということである。
本書の結末近くにあらわれる、もっとも印象的な一行(丸括弧内は『テクストの楽しみ』の各断章にバルトがつけたタイトルを表す。以下同様)、――

「するとおそらく主体が戻って来る」(Sujet[主体])

という(今日では人口に膾炙した)一節が、この「モラリティ」の内実を的確に告げていよう。バルトは主体の身体、作者の身体、すなわち〈私〉が戻って来た、と言うのである。
この一行は、本書の前半にあらわれる、もう一方の耳慣れた一行、――

「制度としての作者は死んだ」(Fétiche[フェティッシュ])

という(やはり今日ではあまりによく知られた)バルテジアン(バルト的)な宣言を受けて、ふたつの文が音楽にいう対位法によって構成されていることが見えてくる。
バルトが「作者の死」と題した論考を発表したのは1968年のことだった。本書が、68年の「制度としての作者は死んだ」から73年の「主体が戻って来る」まで――作者の死からその回帰にいたる、――一種小説的な、しかしあくまでも論文としての規矩を失わない、〈原論〉の性格をもった文芸評論であることが理解されよう。
フィリップ・ロジェは『ロラン・バルト、ロマン』(Philippe Roger, Roland Barthes, roman, Grasset, 1986)のなかで、『バルトによるバルト』におけるバルトの自作のフェイズ分けにふれて、作者自身が「モラリティ」の位相に振った『テクストの楽しみ』を、それに先行する「テクスト性」の「絶頂apogée」とみるべきか、そこからの「暇(いとま)乞いcongé」とみるべきか、と問うている。
そう問う限りにおいて、「モラリティ」のフェイズの後にやって来る「ロマネスク」なテクストの最初の一冊に、『テクストの楽しみ』を類別することが可能になる。バルト自身、この位相表に(ユーモアにも欠けていない)注釈をつけて言うように、「これらの時期périodesのあいだには、いうまでもなく、重なりあう部分、逆戻りする部分、なじみあう部分、生き延びる部分がある」のだから、当然、先行する部分、予見する部分、未来を先取りする部分もあっただろう。

(中略)

したがって『テクストの楽しみ』は、後続する『バルトによるバルト』、『恋愛のディスクール・断章』、『明るい部屋』だけではなく、死の直前までつづいたコレージュ・ド・フランスの講義『小説の準備』や、ついに書かれずに終わった幻の企図projet「新生Vita Nova」にも接続する、核となる作品であることが明白になる。
バルトの言語活動の総体を、この小さな核petit noyau(プルースト)――『テクストの楽しみ』の核分裂する光景としてとらえることができる。
そこで浮上することとして、後期バルト――ここにも見きわめがたい時期の問題がよこたわるが、とりあえず『テクストの楽しみ』以後――の、もっとも謎めいた問いかけを構成する、ロマネスク、あるいは小説romanの問題系が現れて来るのである。
バルトは『テクストの楽しみ』のころは短いことに美徳を見出していたのだが、『小説の準備』を講義する最晩年には、〈短い〉形式としてのメモや日記やノートやアルバムを、〈長い〉形式としてのロマンに生成させるために苦慮しはじめたのだろうか?
それとも彼は小説に踏み出す「域[閾]seuil」の場所に永久に留まろうとしたのか? そこで足踏みしつづけることが、RBのflâneur(遊歩者)としての久しい歩みだったのか?

(後略)

copyright SUZUMURA Kazunari 2017
(筆者のご同意を得て抜粋掲載しています)




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