みすず書房

忘れられた天才作曲家、大澤壽人の生涯と作品を見事に再構成

生島美紀子『天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本』

2017.08.10

【演奏会】
  • 11月26日(日) 兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホール 大澤壽人スペクタクル V 
  • 9月3日(日) サントリーホール[終了] 片山杜秀プロデュース「再発見“戦前日本のモダニズム”――忘れられた作曲家、大澤壽人」 

プロローグ

生島美紀子

オルガンの音は少年の心を突然とらえた。それを聞いたのが母の背中だったか他人の背中だったかもおぼろげな幼い頃の記憶だが、五つのストップがある足踏みオルガンから流れ出す音楽は、身体を貫いて染みわたった。
明治四〇年代初頭の兵庫県。ここは現在神戸市灘区と呼ばれる地域にある日曜学校。オルガンが奏していたのは讃美歌で、その日は子供たちが楽しみにしていたクリスマスだった。
部屋には急ごしらえの舞台が設えられていて、ガス燈の青白い光に照らされている。少年も上がって讃美歌を独唱したが、眠たくなってきたので想い出はその光のように淡い。ほのかな追憶だが、生き生きと音楽を感じた経験は不思議な体感として鮮明に残っている。
やがて彼の家庭にも、熱心なクリスチャンだった母の希望で、音楽好きの子供たちのために七つのストップのあるオルガンが購入された。ストップを引いて強さを変化させてみたり、組み合わせて音質を工夫したり、少年は寝る時以外は弾いているといった様子でこの楽器にのめり込んでいった。
しかし、通っている小学校にある楽器はもっと特別だった。何しろストップが九つもあるのだ。柔らかくて上等そうなカバーに覆われ、講堂の壇上で堂々とした佇まいを見せている。普段は使用されないので、音を聞く機会は始業式などの学校行事の日だけである。
少年は年に数回耳にする音にあこがれた。音楽の先生がきれいな格好をして《君が代》を弾き始めると、音が響きながら寄せてくる。家で聞いている音とはまったく異なり、きらきらと輝きながら光の束となって講堂に満ちていく。彼はすっかり嬉しくなって、胸を高鳴らせながら耳を澄ましていた。

身体に染みわたった讃美歌や心を躍らせたオルガンの響き――少年と音楽との最初の出会いである。少年の名は大澤(おおさわ)壽人(ひさと)。一九〇六年(明治三九)八月一日神戸に生まれ、長じて作曲家・指揮者・教育者となり、音楽と共に人生をひた走った。ミッションスクールでオルガニストをしていた頃。ボストンで一躍脚光を浴びた頃。パリで世界楽壇に名乗りを上げた頃。帰国後の教壇や戦後の寵児ともてはやされた頃。いつでも彼の行くところ、天恵の才が火花を散らし、人々の目を惹く華やかさがつきまとった。
しかし活躍の只中の一九五三年(昭和二八)一〇月二八日、予想もしなかった出来事が彼を襲う。
突然の他界。
周囲の驚きと悲しみには格段のものがあった。翌日には追悼記事が新聞各紙に掲載され、告別式の晩にはラジオで追悼番組が放送された。わずか二カ月後には大規模な追悼演奏会が大阪朝日会館で開催されている。関西楽壇は偉大なスターを失って涙にくれたのである。
ところが、復興景気によって時がめまぐるしく推移するようになると、人々はあの喪失感や深い痛みにもかかわらず、あっけなく彼を忘れた。忘れていなかったにしても、かつての彼について語る人は少なくなっていった。 そうして半世紀もの長い年月が過ぎてゆく。二一世紀を迎えても依然として眠り続ける彼は、遠い彼方に行ってしまったかのように見えた。
だが決して――

copyright Ikushima Mikiko 2017
(筆者のご同意を得てウェブ転載しています)

交響曲や協奏曲はじめ千に及ぶ曲を世に送ったこの稀有の存在は、歿後なぜ忘れられ、半世紀余の沈黙をへて蘇ったのか。その生涯と作品を再構成する。