みすず書房

“隔絶の里程”としての長島愛生園の歴史が物語っているように、国内各地はもとより広く東南アジアにおけるハンセン病者は、その療養施設をめぐる社会の偏見と差別のなかで、想像を絶する苦悶の日々を過ごさねばならなかった。「らい」患者にたいしてはその隔離策があるのみで、その方法は当初から深刻な矛盾を抱えていた。
この“隔離”の壁を越えるべく、多くの先覚者による血みどろの努力が積み重ねられてきたが、その一つとして著者は「外来治療」とそのあるべき姿を考え、その道を求めてインド、台湾、香港での実態をつぶさに見聞する。そして、米軍占領下の二重支配(差別)に苦しむ沖縄で、その経験を生かしつつ16年間を病気の社会的調査と患者の治療に尽力する。その間、WHOの医官として医療の国際協力にも携わってきた。
本書は、少年時代の羽生先生との出会い、医学を学んだあと軍医として中支に従軍、敗戦後の長島愛生園に初の奉職以来、今日まで40余年を、ハンセン病者の治療とその人間回復のためにささげた著者の自伝的回顧である。アフリカの原生林のはざまで医療に尽力したシュヴァイツァーと同じく、アジア各地での医療一筋に生きた、類い希な感動のドキュメントである。

目次

はじめに

I 生い立ちの記
1 日曜学校で
2 ハンセン病者との出会い
3 弱い者へのいたわり
4 ゴルフ談義
5 思想の遍歴

II 医学を学ぶ
1 映画研究と聖書研究
2 信仰の弾圧
3 賀川豊彦先生と岩下壮一神父
4 ハンセン病への道を志して
5 父との約束
6 「日本亡びよ」

III 軍医として出征
1 軍医候補生
2 中支に出征
3 前線へ
4 敗戦を迎えて
  米軍の伝単/医務室を住民に/纏足の老婆/回帰熱に罹る
5 復員して

IV 長島愛生園で
1 苦しい生活
2 新薬プロミン
3 治る時代を迎えて
4 治癒者第一号
5 研究生活
6 光田健輔先生

V 隔離に生きる人たち
1 かつての療養所
2 文芸に生きる人たち
  歌人・明石海人/歌人・千葉修/歌人・深田冽/歌人・松島朝子/歌人・北田由貴子/歌人・太田正一/俳人・玉木愛子/詩人・志樹逸馬
3 信仰に生きる人たち

VI 外来治療の道を求めて
1 隔離の矛盾
2 国際会議に出席して
3 インド各地を訪ねて
4 ブランド博士の理念
5 新しい医療への道

VII 台湾・香港を訪ねて
1 特別講演に招かれて
2 楽生療養院を訪ねて
3 矯正手術に奉仕
4 香港の外来治療に接して
5 台湾の外来治療に接して

VIII 海外での医療奉仕へ
1 戦争への償い
2 長島愛生園を辞して
3 沖縄での奉仕
  黒壁と立札/米民政府に進言/DDS事件/沖縄の痛み

IX 海外医療の歩みの中で
1 ミッショナリーと共に働いて
  矢内原忠雄先生の励まし/キリスト者との交わり/台南外来診療所/楽山園と菊池トミ看護婦/「美しの門」/子供の教育/外来患者——幸せな親子/外来患者——悲しい母と子/ハンセン病の迷信/中国の古文書から/台湾のハンセン病のルーツ/沖縄のハンセン病のルーツ/上原信雄先生の来台/沖縄の外来治療制度/調整役を務めて
2 WHOの医官として働く
  WHOの医官へ移籍/WHO専門官として/移動検診班/米国海軍研究所と疫学調査/恩賜治療室/台北での生活/琉球政府からの要請/沖縄へ出張

X 沖縄での仕事
1 沖縄で働く決意
2 愛楽園長に就任
3 外来治療制度の存続をめぐって
4 復帰闘争
5 病者の幸せを願って
6 愛楽園の実情
  雨漏り病棟/職員問題
7 ランパート高等弁務官を迎えて
8 疫学調査
9 地域保健活動と共に
  保健婦の協力/学校養護教諭の協力/保健所の協力
10 地域との協力
  地域の善意/米国海軍病院の協力
11 沖縄の祖国復帰
12 沖縄愛楽園の前史
  青木恵哉/沖縄MTL
13 愛楽園の創立
14 沖縄戦前後の愛楽園
15 看護学校の付設
16 澄井校の廃止
17 高松宮殿下と沖縄のハンセン病
18 ハンセン病の偏見
  不当な差別/閉ざされた人/病む人の人権/苦難の僕
19 愛楽園の文芸活動
20 皇太子殿下と琉歌
21 国際海洋博覧会

XI 沖縄のハンセン病問題
1 困難な医師の確保
2 ハンセン病予防事業の変遷
3 沖縄のハンセン病の推移
4 ハンセン病解決に向けて

XII 海外のハンセン病問題
1 複合療法の出現
2 アジアでは
3 ノルウェー、インドでは

XIII 今、療養所の門は開かれて

むすび 四十余年を顧みて
あとがき 

「はじめに」より

昭和十九年の春といえば、第二次世界大戦もいよいよ敗戦の色を濃くしていた頃である。東京慈恵会医科大学を卒業した私は、長年の念願であったハンセン病医療への道に進むべく、瀬戸内海の小島にある国立療養所長島愛生園に勤務することにした。
以来、今日までの四十余年間、東南アジアでの働きを含め、沖縄を最後の地としたハンセン病の仕事は、ついに私のライフ・ワークとなってしまった。
どこの国に行っても、ハンセン病医療について私が最も心血を注いだことは、戦後、「治る病気」となったハンセン病の療養所が、社会から隔絶した場所であってはならないということであった。
〔……〕
旧約聖書の「イザヤ書」に予言者イザヤのうたった次のような詩の一節がある。
「あなたの門は常に開いて、昼も夜も閉ざされることはない」
これは異国バビロンで、苦難と屈辱に満ちた、捕囚生活を強いられていたイスラエルの民が、やがて祖国エルサレムに帰り、今まで閉ざされていたエルサレムの門は全世界に開かれ、諸々の王や民が、この地を慕ってここに集まるであろう、というイスラエル民族の将来を象徴した予言の一節である。
私の願いもまさしく、このことであった。療養所の門は常に開かれ、同時にここに住むハンセン病を病む人たちに対して、かつて固く閉ざされていた社会のあらゆる門もまた、広く開かれることであった。
ハンセン病が、今や恐るべき病で無いことを今一度銘記して、「ハンセン病を病む人たちの人間回復」に微力を尽くして来た私の歩みを、振り返ってみたい。