みすず書房

「ある年、母に伴われて病院をおとずれた一人の婦人に会った。小柄で、やせこけていて、化粧気のない、年のわりに老けてみえる、少し頭の大きめの彼女は、私に決して逆らいはしなかったものの、ついに一言も心の底から発することのないまま逝った。いつも私の及びうる距離の少しばかり向うに立っていて、大きな眼でまたたきもせず私の言動をじっと見つめ、私に少なからず職業的無力感を覚えさせながら去っていった。十数年前のことである」(編者)
並々ならぬ文才の持主である一人の少女が八歳のときふとしたことから日記をつけはじめる。それから間もなく喘息という宿痾をえ、青春のほとんどを病床ですごさねばならなくなった彼女は、その眼をもっぱら自己と家族の内面へと向けだす。そして日々の克明な記録はノート六十冊分にも達する。しかし不幸にして彼女は心を病む。二十歳のときである。その後まもなく彼女は筆を折り、再び筆をとらず、数年後心不全のため世を去る。
これは最後に主治医となった一人の医師が御家族の援助をえておこなった六十冊からの抜粋である。狂的世界の心象を描いた手記や日記は数多い。しかし心の病をうるはるか以前からの長い過程を、これほど念に書きこんだ記録は知られていない。健康と病気をへだてる隔壁の微妙さ、しかもそれが行きつもどりつしながら越えられていく様子、それらをわれわれは感動をもってここに読みとることができよう。なお、これは大きくなったらぜひ作家になりたいと叫んでいた彼女が、この世にのこした唯一の作品であり、したがってこの作家未然の作家の病跡学(パトグラフィー)のための無二の素材でもある。

目次

まえがき
1 日記以前
2 大空しゅうの夜のこと/8歳9ヵ月〜9歳10ヵ月
3 ひゅうひゅう始まる/9歳11ヵ月〜11歳2ヵ月
4 なぜ神様は/11歳4ヵ月〜13歳2ヵ月
5 親愛なる友へ!/13歳2ヵ月〜14歳2ヵ月
6 ああ メニュヒン!/14歳2ヵ月〜15歳2ヵ月
7 「お母様、お母様、お母様……」/15歳2ヵ月〜16歳2ヵ月
8 クルト・ウェス氏の手/16歳2ヵ月〜17歳2ヵ月
9 アメリカ人の神父様たち/17歳2ヵ月〜18歳2ヵ月
10 ひと気なし/18歳2ヵ月〜19歳2ヵ月
11 私のすべて Hさんの出現/19歳2ヵ月〜20歳2ヵ月
12 入院、退院、そして入院/20歳2ヵ月〜21歳
あとがき