みすず書房

ヒロイン、アンネットの出自であるブルジョア家族の生活、父と娘、二人の許婚者同士といった、私的かつ直接的な世界は、この巻に至ってその舞台が広がる。たとえば、悪意はないが俗物であり、巧言の徒であったロジェ・ブリソオは、デマゴーグ=日和見主義者という汚れ役として登場するし、個人的なワク、個人的な関係のなかだけでその利己主義や権力欲が非難されていたフィリップ・ヴィヤールは、ファシスト組織の活動家としてその社会的・政治的役割を担うに至る。
もともと、ブルジョア世界の俗悪さと穢さに対置した「私」をことのほか大切にし、その「私」の自覚と内的解放をめざして、自分の人生の目的とテーマを、この個人の自由・自主の確立においていたアンネットは、批判さるべきブルジョア世界のモラルにたいしては示威的にこれを犯し、ほとんど本能的ともいえる大胆さで向っていった。世論とて必ずしも恐れず、世間態とて少しもかまわず私生児の母親として生きていく。したがって、アンネットは結婚を牢獄のように恐れており、恋愛感情を愉しみその波風に揺られながらも、相手を好きになってしまってからの拘束を受ける恐れから、禁欲的な生活を送るのである。こうして彼女は、プチ・ブル知識人にありがちな孤立性の砦からはみ出してゆき、個人の自立を尊重しながらも、民衆とその国の新たな社会的・政治的地平をまさぐろうとするところまで進み出るのである。
登場人物たちのこうした変化は、1914年から1918年の戦争に絡んだ社会変化を背景とし、迫りくるファシズムを前にした状況のなかで、社会や人間の矛盾、またその自由や真実のあり方を追求しようとしたものである。

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(みすず書房では『ロマン・ロラン全集』を、第一次(全53巻、1947年1月—1954年10月)、第二次(全35巻、1958年11月—1966年8月)、第三次(全43巻、1979年11月—1985年12月)の三回にわたって刊行してきました。本書は、その第三次『ロマン・ロラン全集』の第5巻(1979年11月10日発行)を、2013年、オンデマンド版で復刊するものです。ここにご紹介するカバー画像は、オンデマンド版のものです)

目次

三 母と子(承前)
第二部/第三部/第四部/第五部/エピローグ

四 予告する者(Anna Nuncia) I ひとつの世界の死
第一部 テーベ市に対する七人/第二部 草原のアンネット/第三部 罪の風