「みすず書房」ページ内リンク

  1. 「メインメニュー」へ移動
  2. 「みすず書房の本の検索メニュー」へ移動
  3. 「本文」へ移動
  4. 「サイト利用ガイド」へ移動



トピックス

ホミ・K・バーバ『ナラティヴの権利』

戸惑いの生へ向けて 磯前順一/ダニエル・ガリモア訳

ホミ・バーバは、エドワード・サイード、ガヤトリ・スピヴァクと並んで、英語圏におけるポストコロニアリズムの三羽烏ともいうべき存在であるが、著作の多い(したがって訳書も多い)サイードやスピヴァクと比べて、なにしろ単著が1冊しかない(The Location of Culture, Routledge, 1994. 邦訳は『文化の場所』本橋哲也ほか訳、2005年)。
けっして寡作というわけではない。でなければこれほどアカデミックな影響力を保てるはずがない。じっさい『文化の場所』以後も、論文は数多く書いている。2冊の著書が予告されているが、いつになるのか、はたして出るのかもわからない。著作をまとめることに慎重なのか、あるいは懐疑的なのだろう。
そこで本書である。本書は、訳者のひとり磯前順一氏とホミ・バーバが、直接会って相談するなかでまとまった、日本語版オリジナルの著書である(つまり原書は存在しない)。とりわけ2000年以降、ナラティヴ論とコスモポリタニズム論へ大きく旋回していくバーバの思考の軌跡がうかがえる、画期的な編集になっているはずである。

こうして本書がまとまるきっかけとなったバーバとの出会いについて、磯前氏が「訳書あとがき」のなかで触れている。アメリカの人文系アカデミズムの雰囲気がよく伝わると思われるので、以下に引用させていただき、本書への導入としたい。

わたしが渡米した直後の2003年9月に「エドワード・サイード『オリエンタリズム 25周年記念版』を読む」という公開講演がバーバの属する英米文学科によって主催されたのであった。当日議長を務めていたバーバによる発表はなかったが、サイードの死の直後ということもあって、英米文学科の同僚たちによる報告はサイードの業績を顕彰し、その人柄をしのぶといったものであった。しかし、サイードのオリエンタリズム批判そのものが合衆国の社会的良心の象徴であったかのように語ろうとするその論調は、かつてのサイードと合衆国社会との緊張関係を知るものにとっては、とくに合衆国でマイノリティとして暮らすものたちにとっては、かなり違和感を与えるものであったらしく、聴衆からは異議を唱える質問がいくつか出された。そんな雰囲気のなかで、わたしも議長のバーバにたいして彼のサイード批判を糺す質問をしたのであった。
当時、わたしが所属していたライシャワー日本研究所もふくめ、合衆国のエリア・スタディーズは、その背景をなす人種主義的なイデオロギーや冷戦構造下の極東政策が厳しく批判され、おもにアメリカの白人からなる研究者たちはハーバードのキャンパスでも居心地が悪そうであった。他方、そのような冷戦構造下の占領政策や非西洋世界の支配構造を告発した言説がポストコロニアル研究であり、バーバのような有色人の研究者のほうがポリティカル・コレクトネスを背景としてキャンパスの中心を闊歩していた感があった。そのような流れと重なるように開かれたサイードの追悼会では、かつてサイードのオリエンタリズム批判がそうであったように、西洋白人的な知の搾取構造を告発するものとなるのではないだろうかという期待が、一部の聴衆に抱かれていたように思われる。むろん、その期待の焦点にバーバはいた。わたしの質問もまたそんな雰囲気を反映して、かれにたいする期待の裏返しからくる苛立ちを覚えてのものであった。
追悼会での質問は、わたしの英語が拙いこともあり、公衆の前でのやりとりは要領を得ないままにほどなく打ち切られてしまうのだが、幸いにもそれが契機となって、数日後にかれの研究室に招かれることになった。そこでバーバはきわめて率直に、サイードのオリエンタリズム批判にたいするかれの見解の違いを説明してくれた。さらにわたしは自分がハーバード大学に来る前に半年間ほど在籍したロンドン大学でかれの論文「散種するネイション」の読書会を開いていたことを伝え、そこで生じた疑問をぶつけてみると、これほど熱心に自分のテクストを読んでいるのなら、ハーバード大学の授業に出てみないかと促されたのである。そのかわり、授業に臨むにあたって、他の学生と同じようにしかるべき準備をして来ること。発言によって授業に貢献することがしっかりと要求されたのだが。
その授業は、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』『ロード・ジム』にはじまり、V・S・ナイポール『自由の国で』『ビスワス氏の家』、さらにはトニ・モリスン『ビラヴド』、J・M・クッツェー『恥辱』といったポストコロニアル文学をとおして、アイデンティティの転覆、およびそこで生じる不気味さや恥といった感覚を論じる文学論であった。このような小説の解釈をとおした授業は、「散種するネイション」論文を中心とするナショナリズムの理論家といった、日本でのバーバ像とは異なる印象をわたしに与えるものとなった。〔以下略〕



その他のトピックス