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バーバラ・ピム『よくできた女』

芦津かおり訳 〈文学シリーズlettres〉

「婚活」とか「おひとりさま」という流行語が生まれる現代日本の読者にとって、ぜんぜん違和感のない小説『よくできた女』(初版は1952年)。登場人物の交わす会話の絡み合い、すれちがい、勘違いを、よく出来たドラマのようにおかしみ楽しみながら、ヒロインの独身女性ミルドレッドに心を添わせるのが、第一の読み方だと思います。

そのいっぽうで「訳者あとがき」が指摘しているように、ふた昔前のイングランド中流階級社会のリアルな年代記としても読めることは、この作品がすぐれた文学である証でしょう。
たとえば、牧師館の最上階の部屋を貸し出そうとして、ジュリアンが壁を塗り替えている場面。「古金色」と書いてある缶のペンキなのに、気がおかしくなるような黄色になってしまった壁を、みんなが困った顔して眺めています。

「溶くときの水が少なかったかな?」
「薄いクリーム色の濃度に、とありますわ。それが適当な濃度ってことですね」
「といっても、クリームがどんな色かなんて、なかなか思い出せないもの」

ここに訳者が〔配給時代なのでクリームは入手困難〕と注を付けているとおり、大戦後の欧州で配給制が最も長引いたのはイギリスでした。トニー・ジャットによれば「パンの配給は1946年7月から1948年7月まで、衣料クーポンが必要だったのは1949年まで、衣料・家具の戦時体制が廃止されたのは1952年、肉やその他の食品の配給制が最終的に廃されたのはようやく1954年夏のこと」(『ヨーロッパ戦後史』上)です。
戦後ロンドンの古書店員とニューヨークの女性読者の文通から成る名著『チャリング・クロス街84番地』で印象に残るのも、豊かなアメリカから大西洋を越えて送られる食料品のプレゼントでした。

それでも、ようやく平和の訪れたロンドンで『よくできた女』の登場人物たちは、お茶を飲み、レストランで食事をとり、新しい洋服を見つくろい、ささやかな楽しみを大切にしています。未婚既婚を問わず、この小説の中では誰もが人生を、もう突然の中断をもたらされる危険がなくなった人生を送る安堵に満たされているように感じられます。

ある時代の当たり前の人々をきちんと描きながら時代を超える、ピムのように上手い作家、それほど多くはありません。読者のさまざまな読み方に、きっと応えます。




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