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菊池久一『〈恥ずかしさ〉のゆくえ』

――恥の感覚を鍵に、正義や倫理をどのようなものとして構想するか。新著『〈恥ずかしさ〉のゆくえ』の刊行にさいして、著者からひとことをお寄せいただきました。(編集部)

「(こんな内容のものを)出してよかったんだろうか」。いよいよ自著が配本されようというときに抱く思いは、いつもこれだ。何を偉そうにこんなことが言えるのか、自分を棚に上げてしまっていなかったか、そもそも自分にはこんなことを書く資格があったと言えるか等々。後悔と不安ばかりが脳裏を過(よぎ)ってやまないのだ。ましてや、本書のあとがきは、この度の大震災の衝撃覚めやらぬ時期に記さねばならなかった。自らが発することばということばが空疎に響く状況で、いったい何を書けるというのか。書けば書くほど恥ずかしい己を意識せざるをえないのだ。

事情があって新幹線による遠距離通勤をはじめて、かれこれ10年が過ぎようとしている。だが、それを可能にしたのは、めったに運行スケジュールが狂うことのない新幹線を走らせる、原子力発電所が生み出す電気のおかげであったのも事実なのだ。その恩恵に浴すことに大した疑問を呈することなく生きてきた人間に、いまさら何が言えるというのか。すべては言い訳にしかならない。まさに恥の上塗りでしかないのだ。しかも現在、フクシマダイイチで「決死隊」として働かざるをえない「協力会社」に雇われる人たちに、すべてを「丸投げ」し、自らは今までと同じ生活を送ることのできる「特権」を享受する私。福島で乗り換えの新幹線を待つホームでは、「お弁当はいかがっすかぁ」と、弁当を売る販売員のわきで、福島の空気中の放射線量がけっこう高いことを知っていて、できるだけはやく新幹線に乗り込みたいと願っている私がいる。その程度の不安を感じることさえ、「特権」になっている状況。そして、それを可能にしているものの正体こそ、恥の意識を抑圧し続け、醜き己が内面を封印せんとする破廉恥な態度に他ならない。

3月11日、東京電力の勝俣会長が訪中団を率いて北京にいたことは当初から報道されていたが、じつはその団員は大手マスコミのOBたちであったという。トップの不在が、(高価な原子炉を台無しにする)海水注入の判断を遅らせた原因ではないかとも疑われているなかで、名の知られた編集者なども含むこの東電の接待に応じた26名の面々は、いまどんな思いでフクシマをみているのだろうか。

筆者自身が恥ずかしい存在であることの自意識を隠蔽抑圧して尚、恥について書きたいという衝動のなすがままに本書を出版してしまったのは、こうした他者の破廉恥なふるまいに腹が立つからにすぎないのかもしれない。しかしこれもまた、ただの言い訳にすぎない。ただひとつ言えそうなのは、危機に際しても「秩序を乱さぬ日本人」として賞賛されることよりも、品が無いと言われても尚、怒りという私的感情に忠実に生きるほうが自分の性に合っているということなのだろう。だがしかし、こう言っても尚、己が恥ずかしさはいっこうに消えることはないのであるが……。

(2011年4月30日 菊池久一 記)




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