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『サイード音楽評論』

エドワード・W・サイード 序文ダニエル・バレンボイム 二木麻里訳 [全2巻]

音楽について書くのは難しい。サイードは本書2巻の巻末に添えられた未刊の書の起草文を、こう書き始めている。「音楽は、さまざまな芸術のなかでも最も無言のものでありながら、最もまっすぐにうったえかけ、まっすぐに表現することができる。しかし最も閉ざされた分野であり、最も論じにくい分野でもある」。音楽は言語芸術のようには語らないし、音楽の言語習得に必要な楽典に精通しているのは、一部の熱心な聴衆を除けば専門的な教育を受けた人たちである。しかしだからこそ音楽には、多くの聴衆の感覚にじかに、瞬間的にうったえる力があるとも言える。そういう曖昧な性格を抱えた音楽について、専門的な論文ではなく、かといって印象論でもない評論を書くとなると、何をどう書くべきなのか。難しいところではないかと思う。

本書はサイードが1983年から、まさに死の直前までの20年にわたって各紙誌に発表した音楽評論を集成したものである。前半の10年分を収録した1巻にはコンサートやオペラ評が比較的多い。いっぽう後半の10年にあたる2巻では、音楽書の書評から発展した重厚な論考や、作品論の比率が高くなる。多忙や病のため演奏会に足を運ぶ機会が減ったとも考えられるが、白血病の診断を受け長く厳しい治療を受けることになったときには、ちょうどその頃に予定されていたバッハのオルガン曲全曲演奏会に行けるよう治療計画を組み、14回すべての演奏会に行き、そして批評まで書き上げた(本書39章)。同じ時期に「晩年のスタイル」という着想をあたため始めたが、これはアドルノが論考「晩年のベートーヴェン」で本格的に展開しはじめた用語で、のちに上梓されたサイードの『晩年のスタイル』(岩波書店2007)でも、ベートーヴェンのほかリヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、グールドといった音楽家の晩年性がおもに論じられている。そして冒頭でふれた起草文のみが残されている未完の書では、バッハとベートーヴェンの革新的な偉業への独自の視点から21世紀の文化論が展開される予定であった。サイードの晩年の活動において音楽はその比重を増していったのだろうか。確かなことはわからないが、サイードと音楽の間にある臍帯的なものの存在については、サイード夫人が「まえがき」でいくつかの洞察を記していて興味深い。

ところで音楽について書くことの難しさだが、サイードの音楽評論は彼が比較文学の分野で行ってきた批評の延長である。コンラッドやオーウェルに向けた分析眼が音楽という対象にすんなりとシフトしており、批評眼と蓄積された知識、そして総合的なものの見方から、個々の演奏や作品のどこに何を見るべきかが判断され、それがあっさりと知的な議論に組み上げられる。しかも議論として機能していればそれでいいという態度からは程遠く、あくまでも実際の演奏や、音楽をとりまく状況に関与しようとする姿勢が感じられる。本書全体の印象としては、音楽界における商業主義への強烈な批判が支配的なので、ついそちらに目が行きがちかもしれないが、読み込むほどに、議論の組み立てと着眼点の冴えにはっとするのではないかと思う。

しかしそれにしても、繰り返し強烈な非難にさらされ、悪しき商業主義の権化のように言われるメトロポリタン歌劇場には、少々気の毒な気がしてくるかもしれない。そこでメトの名誉のために最後に一言添えておくと、メトは1995年から巨額を投じて字幕を導入している。サイードがさんざん非難していた字幕なしの原語上演を、その舌鋒に屈して改めたのではないだろうが、いずれにしても妥当な判断だったのではないだろうか。




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