みすず書房

新刊紹介

注目の知日派ジャーナリストによる原点のルポ。「訳者あとがき(抄)」公開

2021年4月23日

「東京五輪『中止すべき時が来た』 英紙タイムズがコラム」(朝日新聞2021年3月3日)――。先月、世界中を駆けめぐったこのコラムを執筆したのが、英紙「ザ・タイムズ」の東京支局長であり、本書の著者でもあるリチャード・ロイド・パリー氏です。上記をはじめ、今夏の東京オリンピック開催の是非を問い、そのほか日本やアジア各国の実情を伝える切れ味鋭い報道で注目を集めるジャーナリストとして活躍する一方、日本を舞台にしたノンフィクション『黒い迷宮』と『津波の霊たち』(ラスボーンズ・フォリオ賞、日本記者クラブ賞特別賞を受賞)で評価の高いノンフィクション作家でもあるロイド・パリー氏。その記念すべきデビュー作が、本書『狂気の時代』です。1990年代後半にインドネシアの各地で発生したさまざまな騒乱。その渦中に、若き新聞記者として飛び込んだ著者が目にした強烈な光景とは? ロイド・パリー氏の3作品を全訳した翻訳者の濱野大道氏が、本書の魅力を余すところなく語る「訳者あとがき」を抄録掲載します。

訳者あとがき

(抄)

濱野大道

本書は、リチャード・ロイド・パリーの2005年のデビュー作In the Time of Madness: Indonesia on the Edge of Chaos(Jonathan Cape)の全訳である。読者のみなさんのなかには、「ロイド・パリーの作品だから」という理由でこの本を手に取った方も多いのではないだろうか。英国紙『ザ・タイムズ』のアジア編集長および東京支局長を務めるロイド・パリーは、25年以上にわたって東京でベテラン記者として働くかたわら、これまで3冊のルポルタージュを上梓してきた。2作目となる『黒い迷宮──ルーシー・ブラックマン事件の真実』(原書は2011年、邦訳ハヤカワ・ノンフィクション文庫)では、日本社会で闇に葬り去られた英国人女性失踪事件の真相に迫った。3作目の『津波の霊たち──3・11 死と生の物語』(原書は2017年、邦訳は前記文庫)では、東日本大震災で74人の児童と10人の教職員が亡くなった宮城県石巻市の大川小学校の事故を、従来の日本のマスコミとはまったく異なる視点から解明しようとした。両作ともにこれまで数多くの言語に翻訳され、全世界で出版されてきた。とくに『津波の霊たち』は世界的に大反響を呼び、日本ではロイド・パリーが日本記者クラブ賞特別賞を外国人としてはじめて受賞。またイギリスでは、ラスボーンズ・フォリオ賞という英国随一の名誉ある文学賞を受賞した。

そのロイド・パリーのデビュー作が、発表から15年の時を経てついに日本で翻訳出版されることになった。彼の著作2作を訳し、本書の出版を何年ものあいだ望んできた私としては、この衝撃的なデビュー作を日本の読者のみなさんに紹介できることが嬉しくてたまらない。本書は、1996年から2000年までのインドネシアの騒乱、その暴力と闇を描いたルポルタージュである。アジア通貨危機がきっかけとなり、30年以上続いたスハルト大統領の独裁体制が崩壊。当時『インディペンデント』紙の東京駐在記者だったロイド・パリーは1996年から頻繁にインドネシアを訪れ、民主化や独立を求めるデモ活動や民族紛争を体当たりで取材してきた。本書は3部構成となっており、各部は時間軸ではなくテーマによって分かれている。第1部ではボルネオ島・西カリマンタン州でのダヤク族とマドゥーラ族の民族紛争と大虐殺(首狩りと人肉喰い)、第2部ではスハルト独裁政権崩壊の契機となったジャカルタの学生デモとその後の暴動と略奪、第3部では東ティモールの独立運動と住民投票前後の民兵らによる暴力行為について描かれている。タイトルの『狂気の時代』(In the Time of Madness)は、19世紀後半の宮廷詩人ラデン・ンガベヒ・ロンゴワルシトによる予言の詩「暗闇の時代の詩」に出てくる一節に由来するものであり、第2部で引用されている。

歴史的な背景などの一部の解説をのぞき、ほぼすべての描写は著者本人による経験や目撃談にもとづくものである。ロイド・パリーが描こうとするのはインドネシア史の絶対的な真実ではなく、彼が実際に現地に出向き、みずから見て体験したインドネシアだ。豊かな語彙、表現、比喩を巧みに使い、ときに文学を思わせる高尚なテクニックとともに彼は暴力の歴史を読者に“読ませよう”とする。個人的には、ロイド・パリーの本を読んで(訳して)いると、あたかも未知の世界への冒険譚を読んでいるかのごとく、ハンマーで殴られたように頭がくらくらしてくる。自分の小さな世界観や常識が頭のなかでどんどん崩壊していく、そんな感覚がなんとも心地いい。

あらすじだけを聞くと、第1部の人肉喰いに注目する人が多いかもしれない。実際、ダヤク人が斬首した死体の心臓を食べる場面や著者が人肉を食べろと迫られるシーンには鬼気迫るものがあり、じつにショッキングである。しかしロイド・パリーがもっとも多くを経験し、彼の人生になにより大きな影響を与えたのは第3部の東ティモールでの出来事のようだ。第3部に全体のおよそ半分の紙幅が割かれているのもその証拠だろう。著者自身も、東ティモールでのある経験について本文内でこう表現している──「当時はまだ30歳だったが、これほど濃厚で、恐ろしく、激しい48時間を人生のなかでまた経験するとは思えない」。翻訳していても、第3部への著者の強い思い入れがひしひしと伝わってきた。全体をとおして文学性やエンターテインメント性は非常に高いが、とりわけ第3部の展開には舌を巻いた。国連施設に避難してからラストまでのスピード感や表現にはずば抜けたものがある。

本作で描かれるのは、ロイド・パリーが27歳から30歳にかけてインドネシアで経験した出来事である。30歳にも満たない若手の新聞記者が、これほどの恐怖体験をしたという事実には、ただただ驚くばかりである。ロイド・パリーに会うたび、彼を包み込む恐ろしいほどの“諦観”のオーラはいったいどこから来たものなのだろうと不思議に感じる。数々の紛争や自然災害を目の当たりにしてきたベテラン記者ならではの落ち着きなのだろうが、その根底に本書で語られる「暴力」と「狂気」があることはまちがいない。のちの2作の原点がここにあったのかと感じさせる、若々しさに満ち溢れた力作、それが『狂気の時代』である。リチャード・ロイド・パリーという稀代のノンフィクション作家がどのように誕生したのか、彼のファンは本書を読んでその答えを見つけることになるはずだ。ちなみに、3作すべてのラストにはある共通点があるが、おそらくそれはロイド・パリーのルポルタージュ文学のもっとも核となるテーマなのだろう。

1960年代のインドネシアで何十万人もの共産主義者が抹殺されていた。いまからわずか30年前にボルネオ島で民族大虐殺が起こり、人々は死体の血を飲み、心臓や肝臓を食べた。東ティモールが独立するまでにこれほどの暴力行為と犠牲があった──。60年代の大虐殺を描いたドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』(日本公開2014年)など単館系の映像作品が一部で話題になったことはあるものの、本書で描かれるようなインドネシア近代史に注目する人は驚くほど少ない。本書の翻訳のための参考文献として読んだ『インドネシア大虐殺──二つのクーデターと史上最大級の惨劇』(中公新書、2020年)の著者であるインドネシア研究の第一人者・倉沢愛子さんは「あとがき」でこう語っている。「そのような歴史への理解は(日本では)ほとんど欠如している。なんとかこの歴史を正確に記述し、日本の若い世代に伝えたいという個人的な思い入れが、私をパソコンの画面にくぎづけにさせ、本書の完成につながった」〔( )内は引用者〕。倉沢氏の著書と本書では扱う時代や内容が異なるものの、この文章に私はおおいに背中を押され、『狂気の時代』の翻訳出版にも大きな意味があるとさらに確信するようになった。「これは、暴力と恐怖についての本だ」とリチャード・ロイド・パリーは冒頭で述べる。執筆から15年以上たったにもかかわらず、いまだに世界は「暴力」と「恐怖」に包まれたままだ。暴力の歴史にしっかりと眼を向けるためにも、ぜひ多くの人に本書を読んでほしいと強く感じている。

Copyright © HAMANO Hiromichi 2021
(筆者のご同意を得て抜粋転載しています)


著者ロイド・パリー氏は、これまでに多くの日本メディアのインタビューに応えており、また現在は「クーリエ・ジャポン」でコラムの連載も行なっています。下記よりご覧になれます。

インタビューの一例:web岩波「たねをまく」より「オウムからコロナまで 英国人記者がみた日本の25年〈真実を届ける仕事〉」(伊藤詩織氏)
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/3623

クーリエ・ジャポンの連載『英「タイムズ」紙東京支局長の愛すべきニッポン』
https://courrier.jp/news/tag/series-richard-lloyd-parry/

日本記者クラブ賞特別賞の受賞記念講演動画(2019年6月24日)
https://youtu.be/LAk9xYlyzys