みすず書房

娘たちは、父親はふつうの勤め人だと思っていた

ダニエル・リー『SS将校のアームチェア』庭田よう子訳

2021年11月24日

ことの発端は、ある集まりで出会った学生が調査を依頼してきたことだった。彼女の母親が古いアームチェアを修理に出したところ、中からナチ時代の書類の束が出てきた。その椅子は、母親が学生時代にプラハで買ったもので、オランダに居を移してからも、家族といつも共にあった。大事にしていた椅子のクッションに、なぜそんな文書が隠されていたのか、まったく心当たりがなかった。著者は調査を引き受け、5年におよぶ探索がはじまった。

この本の著者ダニエル・リーは、第二次世界大戦を研究する歴史家だが、SS(親衛隊)の専門家ではない。それが、この物語に新たな視点をもたらしている。「ホロコーストにかんして多くの知識をもっている人でも、新たな発見があるだろう」と評されている所以だ。

ナチ体制に限ったことではないが、戦争や大量虐殺の主要な役割を担った人物の調査は行われても、システムを支えていた無数の人々の役割や生活が知られることはほとんどない。書類の持主であるローベルト・グリージンガーは、そのままであれば、椅子の中で忘れられた「普通のナチ」だったが、著者と出会ったことで、歴史の沈黙のなかから姿を現した。

表紙の写真の右側にある建物は「ホテル・ジルバー」。ナチ時代にゲスターポ(国家秘密警察)の事務所として使われており、グリージンガーが勤務していた。娘たちは、父親はふつうの勤め人だと思っていた。

裕福な家に生まれた普通のドイツ人がナチズムに加担し、どんな人生を送ったのか。戦後、家族に落とした長い影とは。歴史的な事実と家族の個人的な記憶が、新たな相貌をもって浮かび上がってくる、稀有な物語だ。