みすず書房

「思想史を歴史学の中で区分する理由を失わせた」

木庭顕編訳『モミッリャーノ 歴史学を歴史学する』

2021年9月24日

朝日新聞2019年7月8日付朝刊「文化の扉」に、大きなイラスト入りで掲載された「西欧近代 古典が源流」(編集協力・木庭顕)をご記憶の方も多いのではないでしょうか。
記事のもとになったインタビューは、「木庭顕氏に聞く 古典と近代の「複雑な関係」」として『論座』に掲載されました(聞き手・大内悟史記者)。

木庭顕編訳『モミッリャーノ 歴史学を歴史学する』は、編訳者の初めての翻訳書です。
五十年の研究生活で初めてということ、なぜ今回翻訳かということは、「はしがき」に直截に書かれています。
選ばれたのは、「ゼミを再現」すべく「極力ニュアンスを生かした翻訳」それに「本来付されるべきコンメンタールのほんのひとかけらにすぎないが」脚註が、要所要所にじつに周到に付されるという書籍のスタイルでした。

たとえば、第VII論文「G. C. Lewis、Niebuhr、そして史料批判」のモミッリャーノによる本文に

歴史学的直観というのは、当て推量の力ではなく、事件自体と事件に関する情報の伝達の両方を同時に明確にしうる仕方で恣意なく史料を説明する力のことである。直観というのは、史料に取って替わるものではなく、また史料間選択を勝手にする力のことでもない。史料解釈の過程そのものである。だからこそ直観は必ず二重である。史料が言うことを明らかにすることと、史料が言わないことを計算に入れること。史料の意味を積極消極に限定すること。解釈を統合してしまうのと正反対に、その解釈が想像の世界の方へ逸脱していくのを妨げること。歴史家の思考というものは、沈黙し、神秘的で、それ故に無限の数の意味を容れる、そういう史料を手元に置き、分析し、自らの歴史学的経験の常にヨリ深い部分に組み込む。可能な意味の数は徐々に減っていく。しかし最後になっても代替的解釈の可能性をオープンなままにしておかなければならないことがある、いや、そういうことがしばしばある。(200-201頁)

ここに付された訳註

以下続く文章は、Momiglianoの全テクストの中でも最も魅力的に自己の方法について語ったものである。歴史学的直感つまり構成の部分を取り上げる。まず、これはギリシャ・ローマ史にやや特殊であるが、史料たるテクスト自体が歴史学に基づいているので、史料批判は当然に(いきなり書き手のイデオロギーなどのバイアスに向かうのでなく、その)書き手が施す手続に向かう。つまり彼がどのように史料を処理しているのか、である。少なくともそうである場合、バイアス故にその記事を直ちに捨てるというわけには行かない。現実ないし一次史料と関連しているからである。さらに、ここではやや言外であるが、むしろ現実は、その、史料の史料操作という、レヴェルにこそある、ということが示唆されている。これがMomiglianoの方法になっていく。

巻末には解説。つぎの一節があります。

歴史学に全く新しい展望を開いた、ということは最早言うまでもないであろう。まずは思想史を塗り替えた、というより、思想史を歴史学の中で区分する理由を失わせた。

本書とまことに関連の深い論文集『人文主義の系譜』が、本書に半月先立って法政大学出版局から刊行されました。
そこには「アルナルド・モミッリャーノとエットレ・レーポレ」が収められています。
法政大学出版局 木庭顕『人文主義の系譜』 https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15119-4.html