みすず書房

磯野真穂「解説」抜粋をウェブ公開

H・J・ラーソン『ワクチンの噂――どう広まり、なぜいつまでも消えないのか』小田嶋由美子訳

2021年11月12日

磯野真穂

著者のハイジ・J・ラーソンは、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得した人類学者であり、現在はロンドン大学のSchool of Hygiene & Tropical medicineの教授である。ユニセフやWHOといった国際機関のワクチン関連部門で要職を務め、また2010年には、ワクチンをめぐるグローバルな状況を捉えつつ、それをローカルな視点でも分析することを目指すワクチン信頼プロジェクト(Vaccine Confidence Project)を立ち上げた。

本文および彼女の経歴からわかるように、ラーソンはワクチンの効果に確信を持ち、それを人々に広めることを目指すワクチン推進派の研究者である。しかし彼女の言葉は、反ワクチン派を批判する論客に一般的にみられるそれとは一線を画しており、それこそが発売から日が浅いにも関わらず、本書が英語圏の読者に広く届いている所以であろう。彼女の言論の特徴は一体どこにあるのか。

まずワクチンを推進する人々は、ワクチンの「正しさ」、つまりそれが効果が高く、安全であることを科学の言葉を尽くして解説しようとする傾向が強い。たとえば、医師でロタウイルスワクチンの共同開発者であるポール・オフィットは『反ワクチン運動の真実──死に至る選択』にて次のようにワクチンの正しさを主張する。

ワクチンは大変に厳密な科学の手続きによって開発されており、効果と安全性を立証した論文がいくつも出ている。ワクチンの開発の裏には反ワクチン派からの強烈な批判に耐えながら、子どもたちがならずに済んだ病気で苦しむことのないよう心血を注ぎつづける人々がいる。対して、反ワクチン派の主張に科学的根拠はない。そればかりか、因果関係のわからない一事例を大袈裟に取り上げ、ワクチンへの恐怖を感情的に煽り立てる傾向がある。とりわけ問題なのは、ワクチンに疑念を持つ親たちを率いる医師などの専門家であり、彼らは子を思う親の気持ちに付け込みながら暴利や名声を貪り、「補償という虹のたもとに金のツボが埋まっているのを見つける者」(199頁)たちである。

オフィットがワクチンに疑念を示す者、それら人々を先導する(彼であれば「扇動」を選ぶだろう)専門家に対し、このような嫌悪感を持つのは無理もない。彼は医師であり、かつワクチンの開発者でもあって、ワクチンを打たないことで起こる悲劇、その開発の難しさをよく知っているからだ。

ところがラーソンはオフィットと立場を同じくしながらも、正しさの啓蒙を通じてワクチンへの疑義を払拭し、信頼を高めようとする道を進まない。彼女は、「なぜ人々はワクチンに反対するのか」という問いを、専門家の視点からではなく、非専門家の視点から理解しようとする。ワクチンに疑念を示す人々は、その背景に反対に値するような文脈を抱えており、それを専門家がまずもって理解しなければワクチンに対する信頼は得られないというのが彼女の一貫した立ち位置だ。結果彼女は批判の矛先をワクチンに反対したり、疑義を唱えたりする人ばかりでなく、それを推進する国家、企業、医療・公衆衛生の専門家にも向ける。たとえば次のように。

ワクチンの問題は、現代医療が成功をおさめ、技術を過信したことで、技術の土台となるもの──政府に対する国民の信頼、大企業への信頼、社会的協調など──の脆弱さを見落としたことに原因がある。(123頁)

私は、ワクチン抗議運動の大きな波が起こった最大の原因は、医療と公衆衛生の関係者が、ワクチンを接種すること、接種した人の数、数値目標の達成に集中するあまり、ワクチン接種をめぐる社会、文化、政治、経済のネットワークに参加する努力がなされていないせいだという思いを強くした。(133頁)

彼女のこのような姿勢は、彼女が人類学者であることと切り離すことができない。なぜなら「正しさへの謙虚さ」が人類学という学問の根底にあるからだ。

(…)

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