みすず書房

新刊紹介

語り手は少女。気候フィクションの名作。

2021年12月24日

昨年6月、アメリカ合衆国アリゾナ州・ツーソンの北部に位置するサンタ・カタリナ山脈で山火事が発生しました。夜間に起きた落雷が原因と言われています。火災はあっという間に広がり、山中の木々を焼き尽くし、ひと月経っても鎮火しませんでした。「ビッグホーン・ファイア」と呼ばれるようになった災害を、作家リディア・ミレットが出火の数日後にツーソンの自宅から撮影した写真があります。
https://twitter.com/lydia_millet/status/1273368409695113217

この地で〈生物多様性センター〉のスタッフライターとして働いている彼女の最新作『子供たちの聖書(A Children's Bible)』は、東海岸のどこかで夏休みを過ごす家族たちを猛烈な暴風雨が襲うところから始まるので、気候フィクション(Climate Fiction)の傑作として昨年のベスト小説の一つに挙げられました。「気候フィクション」とはどういうものなのか?

《オックスフォード大学出版局がオンラインで公開している百科事典「Oxford Research Encyclopedias」の「英語圏における気候フィクション」という項目によれば、2000年代以降、「気候フィクション」という語が特定の文学作品群を指すようになった。その特徴は「気候の急激な変動が人類の生活や知覚に与える影響を想像する、地球の過去、現在、近未来を舞台にしたフィクション」というもので、実例として挙げられているのはマーガレット・アトウッドの「マッドアダム三部作」(『オリクスとクレイク』、『洪水の年』、MaddAddam)、デイヴィッド・ミッチェル『ボーン・クロックス』、パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』、イアン・マキューアン『ソーラー』といった小説である。これらの作品群の先駆者として、J・G・バラード『沈んだ世界』や(こちらはノンフィクションだが)レイチェル・カーソン『沈黙の春』などが挙がっている。》(本書「訳者あとがき」より)

ミレット自身は「気候フィクション」の作家に分類されたくないようです。今年になって『ロサンゼルス・タイムズ』に彼女が寄せたエッセイは『気候危機がある。だから気候フィクションもある。ゆめゆめそれをジャンルとは呼ばないように』と題されています。単に気候変動の影響があらわれているというだけで、それ以外はきわめて多様な小説群を「気候フィクション」にカテゴライズすることは、「地下鉄で会話するシーンがある、パンケーキを食べることへの言及がある、人が死ぬ場面があるといった小説をいっしょくたにグループ化するのと同程度の意味しかない」というのです。

例えばジェスミン・ウォードの『骨を引き上げろ』(作品社)を、ルイジアナ州を実際に襲った巨大ハリケーンの日々を背景にしているからといって『子供たちの聖書』と同列に扱うのは適切ではないと私も考えます。それなら舞台も作風も異なる二つの作品の読後に胸の内にわき起こる希望のような情動は、いったいどこからやって来るのか? それは十代の少女の一人称による、襲いかかる危機とそこからの脱出の物語という共通点ではないでしょうか。大人たちや男性たちの勢いだけの言動にたいして、語り手=主人公の少女(前者のエシュ、後者のイヴ)は、批判するだけでなく行動する。そして誰かに打ち勝つのではない生き延び方を自らの身体的精神的努力で実現するのです。

地球温暖化を原因とする環境の変容を背景とする多くのフィクションは、これからも書かれることでしょう。けれども、「こうした環境の変容が、客観的なデータなどではなく、あくまで一人称の語り手の心身を通じて伝わってくるのは本書の大きな特徴だ」と訳者は指摘しています。さらに一人称の語りはもう一つの主題を浮かび上がらせるのです。

《環境破壊による世代間の断絶は、この手法でこそ鮮やかに描かれている。生まれながらに先の世代からの負債を負ったイヴたちの怒りを肌で感じる読者は、彼らが親たちのことをひとまとめに「彼ら」と呼びつづける――呼ぶしかなくなっている――のを避けられないと思う。》

先月英国のグラスゴーで開かれたCOP26の会場周囲には、市民に混じって若者たちのデモ行進が目につきました。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリは「この会議は失敗だ」と演説しました。各国の事情と思惑は、一致した目標を設定して努力することを難しくしていますが、十代の子供たちは「彼ら」にたいする憤りを隠しません。

今年9月にはハリケーン「アイダ」が東海岸にも豪雨をもたらし、ニューヨーク市セントラル・パークに一時間で80ミリも降りました。リディア・ミレットはインタビューで、『子供たちの聖書』がこうした危機を初めて直接的に描いた理由を訊かれて答えています。

《それについて書かない方法がわからなかった、というだけです。ふだん仕事としてやっていることについて書くことに長らく抵抗してきましたが、空が落ちてきているなら、結局は、空が落ちてきていると書かなければなりませんでした》

定義も曖昧なまま、あるジャンルに分類されることを作者が嫌がるのも頷けますが、環境破壊が文学の想像力を発揮する主題の一つであることに間違いありません。日本でも「これまでにない」自然災害のニュースが増えています。まして作品が高く評価されるのは選ばれた主題にではなく、言語表現の達成度によるものです。少し迷いながらも、本作を敢えて気候変動フィクションの名作と謳った所以です。