みすず書房

ピアニストの身体感覚から繰り広げられる言葉

チャールズ・ローゼン/キャサリン・テマーソン『演奏する喜び、考える喜び』笠羽映子訳

2022年5月10日

ピアニストはどんなことを思ってピアノを弾いているのだろうか。才能を持って生まれ、幼いころから練習し、過去と今のピアニストと同じ曲を深く追求する。そして観客の前で演奏する。ピアニストとしての人生は、とてつもなく大きなエネルギーが要ることだろう。チャールズ・ローゼンは、そのたぐいまれな明晰さで、演奏活動と理論活動を同時におこなったピアニストだ。

1927年に生まれ、コンサートピアニストで、音楽学者で、「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に寄稿する批評家でもあったローゼンは、器用な人というよりも、すべてが明晰で、楽しそうだという印象をうける。彼のピアノに対する考えは、『ピアノ・ノート』で存分に展開されているが、本書『演奏する喜び、考える喜び』では、長年の友人テマーソンを聞き手に、楽曲について、作曲家について、そして演奏について、自在にその考えを語っている。

ローゼンの幅広さは、様々な出自をもった人が出会うニューヨークという場所の個性を感じさせる。テマーソンは、ニューヨークの劇場でプログラムの作成や翻訳で数々の演劇を紹介した人物で、父親はニューヨーク・フィルのヴァイオリン奏者だった。ふたりとも英語話者のはずだが、この対話はフランス語で行われている。

ローゼンの師匠はリストの弟子だったモーリツ・ローゼンタールで、本書には、ローゼンタールがブラームスと友人になったきっかけが語られている。ホールで背を向けていたブラームスを絶対に振り向かせたいと思ったローゼンタールは、超絶技巧でみごとブラームスを振り返らせたという。作曲家の生きていた時代は意外と近い過去なのだ。

ローゼンはベートーヴェンやシューマンなど作曲家の技法について語るが、過去の偉大な人というより、同じ音楽仲間の胸の内を理解して語っているようにみえる。楽譜や作曲当時の演奏に忠実でありすぎることにローゼンは批判的で、かれの理論的な語り口の背後には、作曲する人の人間としての姿、そして演奏する人の肉体を感じさせる。

おそらくローゼンの最大の魅力は明快さであり、演奏の具体的な話でも、作曲の技法にしても、構成がくっきりと見えてくる。分析というものが、細かく腑分けして点検するような堅苦しいものではなく、音楽をより近しくし、演奏家の身体体験を想像させる、楽しげなものに思えてくる。ローゼンは言う。「芸術は喜びのために作られるという言葉はもっとも古い決まり文句ですが、本当です!」 ピアニストの身体感覚から繰り広げられる言葉で、音楽にかかわることの楽しさを伝えてくれる一冊。