みすず書房

訳者あとがきウェブ公開 「憲法問題に向き合おうとするすべての人びとに」

ハンナ・アーレント『革命論』森一郎訳

2022年4月18日

本書『革命論』は、『活動的生』に続く、ハンナ・アーレントの第二の哲学的主著である。現代における政治哲学の可能性を拓くうえで頼もしい道しるべとなる20世紀の古典を、新訳でここにお届けする。

本書の英語版Hannah Arendt, On Revolution, 1963は、つとに志水速雄氏によって日本語に訳され、広く読まれてきた(『革命について』合同出版、1968年。改版:中央公論社、1975年。文庫化:筑摩書房、1995年)。しかしそれとは別に、ドイツ語版Über die Revolution, 1965から新たに訳すことに意義があると私は考え、『活動的生』の邦訳刊行(みすず書房、2015年)に続いて、翻訳作業に取り組んできた。

翻訳を進めていく中で、私は本書に、英語版からの既訳に付けられた書名『革命について』ではなく、ずばり『革命論』というタイトルを冠したいと考えるようになった。それはたんに英語版からの訳書と区別するためではない。本書がその内容からして、学問上の対象「について」論ずるものではなく、真っ向勝負で革命の本義を問う正真正銘の「革命論」の書だと確信するに至ったからである。むろん本書を読んだからといって革命を成し遂げられるわけではないが、新しい始まりを志向する者にとって不朽の洞察が本書にはちりばめられている。理論的かつ実践的な革命論があるとすれば、本書はまさにその名に値する。

その一方で、内容的には、英語版とドイツ語版にそれほど大きな違いはない。英語版と比べてドイツ語版のほうが『革命論』と題するにふさわしい、などと主張したいわけでもない。にもかかわらず、ドイツ語版からの翻訳にこだわる理由は、アーレント本人が母語に訳したテクストには、著者自身が訳すさいに言い換えたり敷衍したり付加したりした箇所が夥しくあり、面目を一新したそのテクストに日本語からアクセスすることができれば、それだけ日本の読者が本書の内容を理解するのに役立つと思われるからである。

英語版とドイツ語版との記述上の違いは、挙げればキリがない。明らかに有意と思われる相違点のある箇所にかぎって、訳注で指摘するようにした。その概略のみここに記す。

形式的にいちばん目立つのは、章のタイトルの違い、節分けの違い、とりわけ段落分けの違いである。段落数は、総じて英語版よりドイツ語版のほうが多い。ドイツ語版では記述が膨らんで、一つの段落が長くなり、改行する必要が出てきたためであろう。増量の目安にもなると考えられるので、節ごとの段落数の英・独版の違いを、訳注で逐一明示しておいた。ドイツ語版にのみ見られる原注のうち、重要と思われるものも、注記しておいた。本文のドイツ語版での加筆箇所も、とくに注目に値するものは指摘するよう心がけた。逆に、英語版のほうが充実した記述となっている箇所もあり、それがとくに目立つ場合には、訳注で英語版の当該箇所を訳出して補うようにした。

章ごとのドイツ語版の段落数増は、次の通り。序論:1増。第一章:4増。第二章:2増。第三章:1増。第四章:14増。第五章:20増。第六章:14増。本書後半に増補が著しいことは、この数字から明らかであり、それは、第五章と第六章では節が一つずつ増やされていることからも歴然としている。

最も顕著なのは、訳注にも記しておいた通り、第五章の締めくくりの箇所である。ドイツ語版には、英語版になかった2段落が丸ごと、章の最後に付加されている(本訳書279-280頁)。「誕生性」が論じられているこの注目すべき箇所については、拙論「誕生、行為、創設――アーレント『革命論』における「始まり」について」(『思想』第1141号、2019年5月、岩波書店、所収)で取り上げたので、参照されたい。ドイツ語版『革命論』成立事情についても、拙論で少し触れておいた。

ここで気になるのは、英語版『人間の条件』とそのドイツ語版『活動的生』との違いと、本書の英語版とドイツ語版との違いを、同じように考えてよいか、という点である。

拙訳『活動的生』の「訳者あとがき」にも記したように、アーレントは『人間の条件』をまずシャルロッテ・ベラートにドイツ語訳してもらい、その下訳に大幅に手を入れて刊行している。これに対して、『革命論』はアーレントみずから英語版をドイツ語訳して仕上げ、刊行するに至っている(vgl. Hannah Arendt, Ich will verstehen. Selbstauskünfte zu Leben und Werk, mit einer vollständigen Bibliographie, herausgegeben von Ursula Ludz, Piper, 1996, S. 290 u. 300)。これだけ聞くと、アーレントが独力で訳出した『革命論』のほうが、テクストとしての価値が格段に高いようだが、話はそう単純ではない。

アーレントはヤスパース宛書簡の中で、英語版On Revolutionをドイツ語に翻訳する作業に難渋したことを、溜め息混じりに洩らしている(1962年7/8月頃書簡と9月17日付書簡および1963年2月8日付書簡、『アーレント=ヤスパース往復書簡 3』大島かおり訳、みすず書房、2004年、17頁と19頁および40頁を参照)。友人に下訳を作ってもらい、それに手を入れるのは自他ともに大変だったから、今度は最初から自分で訳そうとしたが、じつはそのほうがよほど大変だった、という事情であったと察せられる。著者兼訳者の難渋ぶりがテクストに反映して、ドイツ語版の読者もまた難渋する、といった具合なのである。アーレントなりにドイツ語ならではの記述にしたいという意気込みが伝わってくる反面、よどみのない平明な訳文というわけにはいかず、そうでなくても屈折した内容のうえにドイツ語の表現としての韜晦が重なり、迷宮のようなうねうねした叙述が続くことになる。

翻訳ではふつう、訳者が原文を勝手に変えたり加えたりすることは許されない。ところが著者がみずから訳す場合には、そういう改作や翻案がいくらでも可能である。独立した作品として認められるからである。ただしそれが気楽な作業とはかぎらない。往年の公刊著作を再刊するさいに著者が改訂を施すのと違って、母語でない言語で書き上げたばかりの書物を本人がまた一から母語に訳し直す場合、改変や増補をそこに入れ込もうとこだわり始めるや、際限がなくなる。訳者アーレントのそういった思い入れが押し合いへし合いしているドイツ語版『革命論』は、それゆえ、語の正当な意味で、著者自身による「超訳」と言ってよいテクストなのである。

『活動的生』の場合、『人間の条件』をドイツ語に直してもらった下訳に加筆するだけで済んだ分、まだしもゆとりがあり、比較的のびのびと増補改訂作業にいそしむことができたのではないかと推測される。これに対して、『革命論』の場合、英語をドイツ語に直すという基礎作業のうえに、著者としての練り直しや書き足しの追補作業もこなさざるをえず、ドイツ語の文章をなめらかにする余裕に乏しかったのではと憶測されるくだりも散見される。そう言ったからとて、ドイツ語版『革命論』のテクストの価値を減じることにはならないだろう。曲がりくねった論述の滋味を含めて、著者ならではの秀逸な翻訳作品に仕上がっていることは誰の目にも明らかなのだから。

私は『活動的生』の訳者あとがきで、ドイツ語版Vita activa oder Vom tätigen Lebenを、英語版The Human Conditionの「増補改訂第2版」と呼んだ。これと対比して、ドイツ語版Über die Revolutionは、英語版On Revolutionの「オリジナルな超訳」と名付けたいと思う。

アーレントの苦心惨憺ぶりが表われている豪華絢爛たるテクストを、その屈折した味わいのまま日本語に生き生き再現することは、いかにして可能か――このほとんど見込み薄の問いにたえず悩まされて、私は翻訳作業に携わってきた。そうはいっても、日本語として読むに耐えない訳書を出すわけにはいかない。できるだけ通りのいい訳文にしようと、これでも工夫したつもりである。苦行が快感に変わる瞬間もまれにはあったと記憶する。訳者としては、茶目っ気たっぷりの皮肉屋の言葉遣いと息遣いを、日本語でいささかなりとも伝える訳文にしようと努めた。結果的にどの程度それが達成されているかは、読者諸賢の判断に俟つほかない。

2018年から、ドイツのヴァルシュタイン社から全16巻の予定で『ハンナ・アーレント批判的全集』の刊行が始まった(Hannah Arendt Kritische Gesamtausgabe, Wallstein, 2018-)。2021年12月現在、すでに3巻が出版されている。

第11巻のOn Revolution/ Über die Revolutionは、2024年刊行予定である。その巻担当の編者ロジャー・バーコヴィッチRoger Berkowitz氏は、アーレント夫妻の墓のあるアメリカ・ニューヨーク州のバード大学にあるハンナ・アーレント研究センターHannah Arendt Center for Politics and Humanitiesの所長であり、私が2018年夏に同センターを訪れたおりには、編集作業の抱負と苦心を語ってくれた。おそらく、英独対照鮮やかな文献学的価値に富む一巻が世に送り出されることだろう。英語版とドイツ語版の詳細な比較検討については、批判的全集版の刊行を待つべきである。私としては、『人間の条件』/『活動的生』に続くアーレントの主著が、英語版とドイツ語版のどちらも日本語訳で読めることになったことを、まずは喜びとしたい。


ドイツ語版から日本語に訳すさいに訳者として留意した点は、凡例にやや詳しく挙げておいたが、訳出上の工夫や訳語等に関して、ここでいくつかお断わりをしておく。(訳語の選定については、訳語・原語対照表を兼ねた巻末の事項索引も参照されたい。)

1 アーレントがドイツ語以外のテクストを引くときに自分でドイツ語訳をつけて引用している場合(ドイツ語既訳を用いている場合も)、アーレントの読み筋の窺えるその訳文を尊重したため、ドイツ語訳から日本語へ「重訳」する形になっている。原文からの直訳に比べて、もって回った訳文となった箇所もある。ドイツ語版テクストを読んで受ける印象を、日本語で再現しようとの意図である点、ご理解いただければと思う。

2 アーレントが本文で言及している人名等のうち、一般にそれほど有名でない歴史的人物に絞って、訳注で簡単に説明することとした(たとえば、フランス革命で活躍した人物のうち、比較的有名なミラボー、ダントン、ロベスピエール、シエイエス、サン‐ジュスト、エベールらについてはとくに注記しなかったが、デムーラン、ヴェルニョーらについては簡単に説明した)。本書に登場する固有名を訳注で逐一説明するのは、煩瑣となり味読の妨げともなると考え、差し控えた。著作家等についても同様で、それほど知られていない作家、思想家――その選別には異論もあろうが――についてのみ注記した。ただし、原注に著書の書誌が記載されている研究者名など、不要と思われる場合は、注記しなかった。

3 「歴史的」という意味を表わすドイツ語の形容詞には、geschichtlichとhistorischの二つがある。その違いを訳語に反映させることも検討したが、無用の混乱を招くおそれがあり、断念した(historischは「歴史学的」と訳した箇所もある)。アーレントが両者を厳密に使い分けているわけではないことは、「歴史的必然」という重要語をgeschichtliche Notwendigkeitとhistorische Notwendigkeitの二通りの言い方で表わしていることからも明らかである。

4 一般にdie gründenden Väterと言えば――とりわけ、英語でthe Founding Fathersと言えば――「建国の父たち」と訳されることが多いが、アーレントの革命論の最重要語の一つGründung(英:foundation)を、本訳書では「創設」と訳すことから、「ファウンディング・ファーザーズ」もあえて「創設の父たち」と訳した。Gründungは、後述の通り、ハイデガーの「出来事」論の最重要語の一つでもあり、「基づけ」などと訳されるが、「創基」という訳語が使われる場合もある。本訳書では、Gründungと似た意味のBegründungに、「創基」という訳語をあててみた。

5 Tyrann(英:tyrant)およびTyrannei, Tyrannis(英:tyranny)は、近代的文脈では、「暴君」および「暴政」と訳されることが多いが、古代ギリシア語tyrannosに由緒をもつ言葉である点を重んじ、本訳書ではあえて「僭主」および「僭主制」と訳した。

6 第二章に「同情」と「哀れみ」の対比が出てくる。英語だとcompassionとpityで明確に区別できるが、ドイツ語ではっきり区別するのは難しいらしく、アーレントは同情をMitleiden、哀れみをMitleid と表わしている。この微細な区別を強調するために、wirkliches Mit-Leiden(真の同情つまり共︲苦)とbloßes Mitleid(たんなる同情つまり哀れみ)と苦心して対比したりもしている。後者はbloßes mitleidiges Bedauern(たんなる同情的な憐れみ)とも言われる。

7 これと関連しているのが、Leidenschaftをどう訳すかである。英語やフランス語のpassionと同様、多義的であるため、「情念」「情熱」「熱情」と文脈によって異なる訳語を用いた(Leidenschaftlichkeitは「苦悩することの熱情性」と訳した)。Gefühlも、一般的な「感情」に加えて、「感傷」という訳語を用いた(とくに複数形Gefühleで用いられる場合)。哀れみは「センチメンタルな感傷性」(110頁)だと言われると、くどく聞こえるかもしれないが、原文はsentimentale Gefühlsseligkeitである。

以上、翻訳にまつわることを述べてきた。以下、本書の内容に若干ふれておこう。

本書にはヤスパース夫妻への献辞が付いている。「ゲルトルート・ヤスパースとカール・ヤスパースに捧げる/尊敬と――友情と――愛をこめて」。これは掛け値なしのメッセージであろう。ヤスパースとの往復書簡からも、『革命論』がヤスパースとの長年の対話のおかげを蒙っていることは明らかである。序論の原注では、冷戦という時代の危機を思索したヤスパースの大著『原子爆弾と人類の将来』(1958年、英語版1961年)も紹介されている。ヤスパースとアーレントの政治哲学上の連携について語るべきことは多い。しかし私は、この『革命論』においても、『活動的生』とはまた別な仕方で、著者のもう一人の旧師、ハイデガーとの対話が深いところで聞きとれるように思うのである。

『存在と時間』に次ぐハイデガーの第二の主著とも称される『哲学への寄与論稿』(1936-38年頃成立の遺稿。『ハイデガー全集』第65巻収録。邦訳は、大橋良介・秋富克哉訳、創文社、2005年)と、アーレントの第二の哲学的主著『革命論』が呼応していることは、その中心章がどちらもGründungと題されていることからして明らかである。前述の通り、本訳書ではこの語は「創設」と訳したが、「建国」という訳がふさわしい場合もある。ハイデガー研究の方面では、この語は「根拠づけ」とか「基礎づけ」とか訳されることもあるが、それでは「始まりをひらく」というこの語の中心的意味は逸せられてしまう。そもそも「没根拠」であって「基礎づける」ことなどできないのが、「始まり」なのである。その後に続くものにとって「根源」をなすものでありながら、それ自体は底が抜けている「始まりの出来事」を、いかにして叙述するか――この難問に挑戦した哲学者がハイデガーであり、アーレントなのである。革命という近代の「大いなる出来事」に即して、「新しい始まり」の時空を究明することこそ、『革命論』のねらいであったように思われる。

だとすれば、ハイデガーが思索の根本語に選んだ「出来事Ereignis」という言葉が本書で頻出していることも(事項索引参照)、一つの意味深長な目配せと解されよう。ハイデガーの「始まり」の思索とアーレントの「創設」の思考が呼応していることについては、しかし別途入念に考察されるべきであり、ここではこれ以上立ち入らない。

本書『革命論』と最も深い関係にある書物は、やはり何といっても、著者自身の『活動的生』である。両者は姉妹編の間柄にあると言ってよい。アーレント政治哲学の真骨頂が示されているこの二冊は、一対の連作として併読されるべきである。

私事になるが、私は四半世紀前、前任校で担当していた英語文献の哲学演習で、The Human Conditionに続いてOn Revolution をテクストに取り上げたとき、ハイデガーとアーレントの出来事論の呼応関係に想到するとともに、アーレントの二大主著が相補関係にあることに思い至った。公的なものと私的なものの区別。現われの空間としての政治共同体。複数性と誕生性という行為の根本条件。権力と暴力と必然の根本区分。近代という時代の特殊性と普遍性。それらのテーマが両書において、一方では主として事象的に、他方では主として歴史的に、しかし互いに相補う形で、論じ深められていることを知り、感嘆したことをよく覚えている。

新しい始まりはいかにして生ずるか――アーレント政治哲学のこの根本の問いは、哲学的にも政治的にも、いつまでも古びることはない。革命論など時代遅れだ、と片付けたがる向きには、まさにその片付け方からして、新しい始まりへの志向が自分の中にどんなに根強くあるか、胸に手を当てて考えてもらいたいものである。昨今では「改革」熱という退縮した形でしか現われなくなったとはいえ、依然としてわれわれのうちにひそむ「革命」志向を深々と言い当てているのが、近代人の自己省察の書『革命論』なのである。

とりわけ注目すべきは、『人間の条件』第五章「活動」――『活動的生』第五章「行為」――を締めくくる第三四節の「約束」論が、『革命論』第四章の「社会契約」解釈へ向かっていくさまである。始まりをひらく相互約束という考え方は、アーレント政治哲学の新機軸を示して余りある。のみならず、『革命論』において「約束」論は、「憲法」論へおのずと展開してゆく。そしてその哲学的憲法論は、相互約束としての「創設」が世代から世代へ守られてゆくという意味で、「始まりの時間性」の問題群に連なってゆくのである。

本書が今日的に重要なのも、まさにここ、つまり憲法問題への寄与ゆえであろう。非力な私がそもそも翻訳に挑んだのも、本書に思いがけなくも見出される哲学的憲法論が、その原理的性格ゆえに、わが国の憲法論議に資するところ大であると考え、日本の読者に本書を再読、味読してほしいと願ったからにほかならない。もっと言えば、本書が熟読されること自体、憲法という相互約束の反復と更新という意義を帯びうるのである。


遅々とした歩みでこの七年間続けてきた翻訳の仕事をようやく終えることができ、私は今、胸をなで下ろしている。憲法とは何だろうかと根本から問い直すようわれわれに促してくる本書が顧みられることなく、古いものを変えるのはよいことだ式の改革熱――新し物好き病――にやられて性急かつ拙劣に憲法「改革」がなされることは、何としても避けたいとかねてより念じてきたからである。次なる課題は、本書で打ち開かれた革命と憲法の哲学にもとづいて憲法論議に一石を投じ、現代日本における政治哲学の可能性を切り拓くことだと見定めている。

本書は、現代日本に生きるわれわれのために遺贈された書物ではないかとさえ私は思う。その宝物を活かすも殺すも、われわれ次第である。その活用のために、私はドイツ語版からの日本語訳の仕事に精根を傾けてきた。それゆえ、訳者としては、わが国で憲法問題に向き合おうとするすべての人びとに、この訳書を繙いていただきたいと念願している。

本書にやどっている「革命精神」が、わが国の志ある人びとをして、あらたな始まりへと鼓舞することを、新訳者としては夢見ている。

Copyright © MORI Ichiro 2022
(筆者のご同意を得てウェブ転載しています。なお、
転載に際し行のあきなど若干の変更を加えています)