みすず書房

いま、真っ先に紹介すべき本として、ほとんど確信しつつ本書を選びました

マリー・スタイン『ひとつの心とひとつの世界――越境するユング心理学』大塚紳一郎訳

2022年7月21日

訳者あとがき(抄)

大塚紳一郎

本書『ひとつの心とひとつの世界──越境するユング心理学』をこうしてみなさんに送り届けることができて、訳者として本当に嬉しく思っています。

2018年から2年間、私はユング派分析家の訓練のためにチューリッヒに滞在していました。その際に、せっかくの機会なのだからと、「現在のユング心理学」を日本に紹介できる書籍を探してみることにしたのです。暇さえあればISAP(International School of Analytical Psychology Zurich)のライブラリーに足を運び、いろいろな本を少しずつ訳してみました。

他にも素晴らしい本はたくさんありますので、悩まなかったと言えば嘘になります。ですが最終的に、いま、真っ先に紹介すべき本として、私はほとんど確信しつつ本書を選びました。いま、すべての作業を終えて、その確信はより深まっています。本書はきわめて現代的な内容を扱っていながら、今後も必ず読み継がれていく本です。それは特別な書物の証であり、本文中の美しい表現を借りれば「時間と永遠を重ねる」ことのできる本だけの特権でしょう。

著者の来歴について簡単にご紹介しておきます。
本書の著者、マリー・スタイン博士は1943年、カナダで生まれました。プロテスタントの牧師であった父親のもとで、非常に宗教的な環境で育ったそうです──ユングと同じですね。
大学はアメリカの名門イェール大学に進学し、そこで本文にも登場する高名な英文学研究者ハロルド・ブルーム教授のもと、英文学を専攻しました。その後、同大学のディヴィニティ・スクールに進学し、この時期に友人の勧めでユングの『自伝』を手に取ったことが人生の転機となります。1969年から73年にかけてチューリッヒ(当時)のユング研究所でユング派分析家の資格を取得。帰国後はジューン・シンガーらと共にシカゴのユング研究所を発足し、シカゴをアメリカ・ユング派の拠点のひとつにまで育て上げました。

ユング派分析家の国際協会であるIAAP(International Association for Analytical Psychology)でも長らく中心メンバーとして活躍し、2001年から2004年まで会長の要職を務めています(ちなみに現会長は日本の河合俊雄先生です)。
そして2003年にはスイスに移住し、ISAPの初代プレジデントとして、当時深刻な危機を迎えていたチューリッヒでのユング派分析家訓練の存続のために尽力しました。現在も教育分析家およびスーパーヴァイザーとして、日本を含む世界中からやってきたキャンディデートの訓練にあたっておられます。

また、著者は20世紀後半から現在に至るまで、もっとも多くの書籍を出版したユング派分析家でもあります。単著だけで12冊、編著にいたってはもはやご自分でも数えきれないそうです(訳者が確認できた範囲でも20冊以上ありました)。2020年からはカイロン・パブリケーションから著作集(Collected Writings of Murray Stein)の刊行がはじまっています。
臨床家として、著述家として、教師として、国際的なリーダーとして、著者は長年にわたってユング心理学の世界の内外で活躍してきました。現代を代表するユンギアンと呼ばれる所以です。

この「あとがき」を書いている最中、著者から連絡がありました。ウクライナ南部の町、オデーサで講演をするというのです。私は言葉を失ってしまいました。そんなことが実現可能だとはとても思えなかったのです。当然ながら講義はオンライン開催になったものの、インターネットが機能するかは当日になってみないとわからないそうです。それでも、著者はこのように言っていました。

「何人の人が集まれるかわからない。勉強をしている場合ではない人もたくさんいるだろう。それでも講義を届けたいんだ。いまこそ、私たちは人間の心について学ぶべきなのだから」

著者のこの言葉は、いま、本書を世に送り出すことの意味そのものでもあるように、私には思えるのです。

2022年3月

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(筆者のご同意を得て抜粋・転載しています。
なお読みやすいよう行のあきを加えています)