人気絶頂にあるドイツ人お笑い芸人が、ふと思いついて巡礼の旅に出る。スペインのサンティアゴ巡礼道、八〇〇キロの道のりである。
作者は敬虔なクリスチャンというわけではないが、それでも道中、幾度も幾度も、「神とは何か?」という疑問を自分に向かって投げかける。もしかしたらこの問いは、確とした宗教を持たない私たち日本人には、最初は感覚的にわかりづらいかもしれない。けれど、次第に理解できる。神とは何か、という問いが、決して私たちと無関係ではないことが。
ドイツ人ならだれもが知っているお笑い芸人の作者であるが、驚くほど、私たちと変わらない。すばらしく健脚なわけでもないし、すぐへこたれる。他人に不寛容で、下心もちゃんとあり、何より修験者のストイックさなどこれっぽっちも持っていない。大勢の巡礼と雑魚寝をするくらいなら、清潔なホテルで四肢を伸ばして眠りたいし、あまりに疲れたときは列車やバスでショートカットする。それで、私たち読み手は思うはずだ。彼にできるんだから、私たちにだってこの道を歩けるはずだ。そう思ってしまうくらい、彼の長い過酷な旅が、うらやましくなってくるのだ。脚の痛みやいらだちや、空腹やのどの渇きや不安や、不快な暑さまで含めて、うらやましくなる。
そこまで読み進めば、神とは何かという彼の問いが、私たちとそう無縁ではないことがわかってくる。彼が、はじめて体験するほど過酷なこの巡礼道で、くりかえし抱く問い、神とは何か。この神、とはつまり、わたし、であり、いのち、であり、他者、であり、死、であり、運命、である。
自分さがしという言葉は、少し揶揄的な響きを持っている。スピリチュアル的なものも同様。だから、三十七歳の作者の問いに、最初は戸惑うのだ。四捨五入して四十歳なのに今ごろ自分さがしなのか、とか、すでに何ごとかなしえた人なのに、まだ宇宙なんて言っているのか、とか。たぶん作者自身も、そのことをわかっている。スーパーナチュラルだのパワースポットだの宇宙の力だの、真顔で語る人にはなりたくないし、神とは何かという問いを、いつも茶化さずにはいられない。けれど茶化しながらも、距離を置きながらも、彼はその孤独な道のりで、それらの問いに真剣に向き合わずにはいられなくなる。読んでいて痛烈にうらやましいのは、彼の旅というよりも、そのことかもしれない。照れずごまかさず、自身と、他者と、いのちと、死と、運命と向き合うこと。考えること。そうする時間があること。
私たちは、彼がいくつものちいさな奇跡を手に入れるのを目撃する。次第に、そのことに驚かなくなってくる。彼の足跡を追うことで、人生にはそうしたギフトがいくつも用意されていることに、自然と気づかされてしまうのだ。
巡礼の果てに、ものすごい悟りがあるわけでもない、重大な体験が待ち構えているわけでもない。終わりまで、この作者らしくクールで非ドラマチックだ。だからこそ、静かな、消えがたい、深くゆたかな感動が広がる。あれほどうらやましく思っていた過酷な道のりを、私もたった今、歩き通してきたかのような、充実に似た、感動である。
人生を旅に例えるのをよく聞きます。それは旅に出てみて初めて分かること、想像とは違った喜び、悲しみ、辛さや感動があるからでしょう。この著者はドイツでは有名なコメディアンですが、僕は彼のことを何も知りません。
誰なのかも知らない、そして異国での旅行記。それは全くもって想像出来ない旅の物語でもあります。ページを進めて行くうちに、いつしか著者と並んで歩いている自分が紙面の中にいるような感覚に襲われました。
一緒に旅をしている。喜怒哀楽すべてが詰まった旅行記。読み終えた後、旅支度を始めたくなりました。暫く旅に出ていないなあ。
[鈴井貴之]
1992年に「クリエイティブオフィスキュー」を設立。後に大泉 洋ら演劇ユニット「TEAM NACS」らが所属。現在は、タレント・構成作家・映画監督など、多岐に活動中。
‘90年~’98年まで自身が主宰していた劇団「OOPARTS」。2010年はかつての“劇団”という形ではなく、新たな生まれ変わりとして「OOPARTS プロジェクト」を再始動させる。その第一弾は舞台 「CUT」。キャストに宇梶剛士・田中要次らを迎え、10/6(水)からの札幌・東京・大阪公演を作・演出で臨む。
OOPARTS [CUT]オフィシャルサイト >> http://ooparts-hokkaido.net/
長く山登りをつづけてきた。最近になって、自分の生活圏から離れてわざわざ山に登ったり、旅をしたりするというのは、思い上がった行為なのではないかと思うようになった。旅はごくたまに行なうから人生の良きスパイスであり、くり返すと破廉恥になる。
巡礼という旅はその点、ふつうの旅とは違うようだ。世界中に似たような習慣があることを考えると、宗教とは旅を純化する装置なのかもしれない。内省というところが、巡礼の鍵である。本書でも鍵だ。ただ私は残念ながら、キリスト教の宗教観やキリスト教文化圏の考え方がうまく飲み込めない。本書でもハーペイさんは、アストルガで「神と出遭った!」と言う。しかも、たまたま何も考えず黙々と歩いていたら、「神が出て来た」と。
登山でも偶然の連続はしばしばある。たとえば雪崩に巻き込まれて生きていれば、そこにはなにか特別な意志が介在していたと考えたくなる。だがその「偶然」を神と呼んでしまうことは、私にはできない。生きること、しかも自然環境でなんとか生き残ることは、私にとって、そもそも努力でなんとか幸運をつなげることだからだ。
と懐疑的になりつつも、ハーペイさんの旅の報告には間違いなく読者を惹きつけるものがある。それは目的地に向かってただ歩くという行為が、行為者に「自分はいったい何者なのか」と問いつづけるからだろう。登山も歩く瞑想といわれることがある。目的地に向かって黙々と歩くということは、時にささやかに、時に激しく、その人の存在を揺さぶるのだ。
意味深い体験は人の顔つきを変える。同じように著者が体験を経て、変わっていくことを、文章の連なりから読者も体験する。自分と向き合うハーペイさんの(コメディアンらしい)正直な告白旅行記に読者が揺さぶられるのは、行為者の変化を感じ、その変化を産む巡礼に含まれる得体の知れないエネルギーを感じるからであろう。
旅はかわいい子だけのものではない。
本来旅とは、休暇をもてあましたときの解決策や余暇の楽しみのためにあるのではなく、やむにやまれずおこなう骨折り仕事だった。その原形は聖地を目指して歩いていく巡礼のなかにこそ存在している。
今いる安定した場所から離れ、一人で野に出て歩くこと。そうした行為は、たとえ巡礼といえるようなものでなくても、通過儀礼(イニシエーション)として、あるいは人が生きていくために必要な身ぶりとして、常にわたしたちのそばにあった。
オーストラリア先住民のアボリジニたちには、「ウォークアバウト」と呼ばれる日常での歩行行為が存在する。それは決して「放浪」などではなく、目的をもった「移動」だといえる。一時的にでも生活の場を都会に移さざるをえなかったアボリジニたちは、町の生活に打ちひしがれたとき、一人で原野へと向かう。照りつける日射しのなかを、大地の声に従って歩く。ただひたすら歩く。そうやって、閉ざされた五感を徐々に回復していった。
江戸時代の日本には富士山を目指す巡礼者たちがいたし、四国八十八カ所を巡るお遍路などは祈りを込めた歩行という行為を体系化させた最たるものだろう。
本作は、そうした巡礼行為のなかにあって、世界中で最も有名だと思われるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの道を題材にした紀行ノンフィクションである。著者のハーペイ・カーケリングはドイツでは知らない者がいない37歳の有名なコメディアンであり、本書はドイツ国内で300万部ものベストセラーになっているという。
彼の紀行が面白いのは、まったくストイックではない姿勢と、正直な心情の吐露にある。冒頭で述べたように、巡礼は骨が折れる。しかも800キロもの道のりを自らの足で歩くのだから、その困難は想像にあまりある。普通の書き手ならば、肉体的、精神的な困難を生真面目に綴るのだろうが、ハーペイは人を笑わせる職業に就いているだけあって、弱々しい部分を読者に見せることに躊躇がない。
巡礼をはじめるとすぐに弱音を吐き、足の痛みを訴える。不衛生な巡礼宿を拒み、ホテルに宿をとる。教会の宗教的な厳粛さには目もくれず、アイスクリームパーラーへ直行する。ちょっと惹かれる人に会うと、気をよくして声をかける。背中には「超豪華ヨット並みの装備」を入れたバックパックを背負い、喜怒哀楽も激しい。
つまり、がちがちのカトリックの巡礼者たちと違って、まったく気負いがないのだ。大上段に構えることは一切なく、むしろそうした「普通の」姿勢だからこそ、宗教うんぬんを脇に置いて、誰でも気軽に読み進めることができる。しかし、おちゃらけた一面がある一方で、時折鋭い思考の断片を忍ばせているから油断がならない。ソローの『ウォーキング』をひくまでもなく、歩くことは思索と直結する。まっさらな気持ちで巡礼に向かったハーペイも、後半には2人の仲間を得て、魂を解き放つゴールへと向かうのだ。
この記録は、緩急のあるハーペイ自身の内面の動きをたどるのみならず、巡礼路で出会う多種多様なヨーロッパ人旅行者たちとの邂逅や別離も詳述している。彼らの旅でのスタンスや人との関わり方の違いを知ることもまた、ぼくにとっては読んでいて楽しい部分だった。
歩くこと、歩き続けること、旅をすること、生きること。その先に、もうひとつの世界はおのずと立ち現れてくる。ぼくはキリスト教徒ではないのだが、不覚にもいつかこの巡礼路を歩きたいと思ってしまった。歩いた先で解き放たれた魂は、自分にとっての神とは何か、という答えの一端を垣間見せてくれるだろう。
何を隠そう、ぼくもサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼をしたことがある。友達が誘ってくれたおかげで、日本人、ドイツ人、スウェーデン人、アイルランド人からなる総勢十人のグループに混じって、ガリシアのサリアの町を出発し、五日間掛けて百キロあまりを歩いたのだ。たまたま父が死去した直後だったので考えることも多く、忘れがたい徒歩旅行になった。クリスチャンではないけれど、あの旅以来、ホタテ貝をかたどったメダイを肌身離さずお守りにしている。自分にしてみれば大旅行だったけれど、ぼくが歩いた旅程はハーペイさんの巡礼日記ではわずか三十ページ、全体の十一分の一に過ぎない。彼はピレネーの山麓から三十八日かけて、サンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂まで歩き通した。言ってしまえば一言だが、なかなか実行できることではない。
ハーペイさんがいいのは、このひとがとても普通だからだ。けっこう怒るし、嫌いなものはキライだし、歩いてくたびれるし、食いしん坊だし、後悔なんかもひんぱんにしてくれるので、他人とは思えない。そうして耳を傾けていると、けっこういいことをぼそっと言ったりするのだ。いわく、神とは傑出した映画のようなもので、教会という組織や制度は田舎の映画館み
たいなものだ、とか、苦しむとはようするに「わかってない」ことなのではないか、などなど。彼は巡礼の途上で出会ったよその飼い犬――苦しい犬生を送っていた――にたいする自分の至らない態度を真剣に後悔し、次に出会った別の犬にたいして手をさしのべることで、失敗を償おうとするひとである。こういう人物が書く日記だから、徒歩旅行の毎日は小さなドラマの連続になる。すてきなひとや、嫌な奴や、変てこな人間もたくさんでてくる。なかでもぼくは、ホルヘという名前の、南米から来たきてれつな男がいちばん好きだった。できればああいうひとになりたいけれど、自分のキャラでは到底無理だろうなあ……。
ハーペイさんがサンティアゴ・デ・コンポステラまでたどりつくのを見届けて、ぼくももういっぺん巡礼をやってみたくなった。二回目の巡礼者は、ベテランの印であるホタテ貝を身につけて歩くことが許されるのだそうだ。次回はせめて二週間、できれば三週間ほどかけて、リュックサックには堂々ホタテ貝をぶらさげて、ピレネーに近い地点から歩いてみたいと考えはじめた。
ピレネー山脈から大西洋の近くまでイベリア半島を横切るというのだから、ざっと東京から下北半島は恐山まで歩くほどの距離である。四国のお遍路さんとは違い、ぐるりと回るのではない。どん詰まりまでまっすぐに歩む。天国にでも昇る気分でラストを飾るのだ。陽性である。
本書の著者はスピリチュアル混じりのリベラル系クリスチャンだ。ダライラマにも輪廻にも関心がある。いまどきの宗教文化の中にある著者にとって、神とは「愛」「個を生かすもの」「開かれた態度」のモーメントのようなものだ。それはコメディアンというプロの、人間好きの人生観とも一致し、また、「人との出会い」の物語たる巡礼の道行きとも呼応しあう。
本書は、ある意味で、著者自身がすでに内面化している文化的コードの再認識のプロセスである。日本で言えば、諸行無常的ムードから出発したお遍路さんが「出会いがあれば、別れもある、人生、嗚呼」という感慨とともにゴールを迎えるというのに近いかもしれない。神仏はびっくりするような奇跡の中にではなく、人生の旅路の一期一会の中に現れる。巡礼の道行きはその模型のようなものだ。著者の宗教的高揚感が(日本式の)詠嘆調ではなく、(西欧風の)ダンスパーティ調になるところがおもしろい。
宗教が抽象化されているのは、現代の文芸の世界では普通のことで、たとえば村上春樹でも、おそらく北野武の映画なんかでも同じである。
カーケリングの本は300万部も売れたのだそうだが、同時期に全世界的に馬鹿売れしたハリポタの場合、左派クリスチャン型の「愛」の物語を、人生の政治性を若い読者に伝えんとする道化的「まぜっ返し」の要素で覆い尽くしている。この点、現代ドイツの道化たるテレビコメディアンのこのノンフィクション巡礼記には、シェークスピア風の油断ならないアイロニーはない。もちろんそれは旅日記という文芸スタイルが軽みと楽天性とを要請しているせいだろう。
というわけで、評者がむしろ知りたいと思ったのは、カーケリングの普段の職業である政治漫談の毒舌がどのような感じのものなのかであった。そうした文脈に置いてみたとき、この本の政治性やアイロニーのありかが見えてくるのかもしれない。
しかし、そういうひねった見方は、今はお預けにして構わない。本書を読んで、「私もサンティアゴ巡礼路を歩いてみたい」と読者が思ったなら、そこに価値があるわけだ。その点、本書はいい旅ガイドになっている。炎天下に麦畑を十数キロも孤独に歩き続けて小さな旅籠に入り、クールな扇風機とチャーミングな先客に出会うときの気持ちがどんなものかがよくわかるからである。出不精の私だって歩きたくなるというものだ。まさしく「心が開かれる」! 今どきの読者が求めている宗教とはそういうものなのだ。
ドイツのテレビ界きっての人気者が、一人で800kmもの巡礼の旅に出る。それって日本でいえば、さしあたって松本人志あたりが、お遍路さんに行くようなもの? いや、だいぶ違うか。なんたって「神」と来たからね。果たして不信心な日本人の自分に、こんな本が読めるかしら?
と、思ったのは結論から言って杞憂でした。神と呼ばれる絶対的な、垂直の力に対するときの人間のこわばり、みたいなものがこの巡礼日記には無くて――もちろん巡礼だから並の道路と違って精神的にも体力的にも困難を極めるわけだけれど――軽やかに、スイスイと水平方向の浮力でもって、ハーペイさんは読者をサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂まで導いてくれます。
なんたってハーペイさん、神に出会っちゃうんですから。えっ? それって究極のネタバレ? そうかもなあ。でもご安心を。だってこれは、神が顕現する瞬間をクライマックスとして捉える予定調和を、あっさり否定した
本でもあるのです。起こらなければ奇跡じゃないし、居なければ神じゃないよ。まるでそんなふうにハーペイさんは考えているんじゃないかって、ぼくはそう推測しながらこの本を読んでいきました。
人と人との出会いや再会、そして人と神との出会いの、えもいわれぬアトモスフィア。特筆すべきは、抜群のフットワークと温かさをたたえた訳文の素晴らしさです。猪股和夫さんのステキな日本語のツバサに乗って、ぼくらは800kmの道のりを読書で旅したし、もしかして、神様のこともチラ見しちゃったかも!?
そんなトクする本を、ぜひあなたも。ああ、これってご利益ありそう。
巡礼というものと私は無縁だと思っていた。この言葉から想像するストイックな信仰心と自分は全く無関係だと感じていたからだった。ハーペイ・カーケリングの『巡礼コメディ旅日記』は、そうした私の意味のない偏見を気持ちよく一蹴してくれた素敵なノンフィクション(冒険譚)である。彼にとっては、地球はちっぽけなものだからこそ、神という偉大で大きな存在があるということが重要であり、その大らかな心持ちが、人との出会いや体力的なきつさ、食事や宿の心配などの困窮する事象すら肯定的に受け止めるため、どんな事柄でも生き生きと躍動感に満ちて語られていく。五カ国語を駆使し、TVで活躍するエンターティナーの著者は、他人の
会話も放送劇として楽しみ、また、人物観察も鋭く、それも気づきの旅の一部として受容する。フラッシュバックのように彼の過去(デビューの頃など)が語られるのも面白い。しかし、カミーノの道800キロを歩くことは守られていた日常から逸脱する。それは、解放であると同時に、すべてから放り出されることでもあって、そこから人が自立する可能性が見えてくる。カミーノに行かずとも、こうした彼の体験を本書を通じて我々は知ることができ、彼の達成感は我々のものともなる。読書の醍醐味を堪能させてくれる一冊であった。
本書の導入部で、著者のハーペイ・カーケリングさんは記している。神とは何者か。それを探すために巡礼の旅に出たと。さて読み進めると、まだ出発したばかりなのに車に乗ってしまう。それってあり? 宿泊地に着くと巡礼宿は不快だからと快適なホテルに泊まってしまう。そんなんでいいの? 道々出会った巡礼仲間たちと深夜まで酒宴。楽しそう! と、読者は、巡礼という行為に付随するストイックなイメージを、次々と裏切られる。そのたびにちょっとあきれつつも、彼の旅の道行きに興味をそそられてしまう。江戸時代、伊勢参りは庶民にとって一生一度の一大行楽イベントでもあったそうだが、彼の巡礼も信仰と綯い交ぜになった行楽のようにも思える。
でも、ある日、彼は神と邂逅してしまう。ちょっと気の抜けた巡礼者にも、神は顕現したまうのか。その真相は定かでないが、彼は数々の神秘的な出来事(とるにたりないようなことも多いけれど)に出合いつつ旅を続けてゆく。彼の言う「奇蹟」がまさに奇蹟だとするならば、「歩く」「移動する」という身体的行為の中にこそ神は顕れ、体験としてそれが精神に刻まれてゆくということだろう。
彼の巡礼スタイルは、敬虔な宗教者のそれとはかけ離れているのかもしれないが、この旅を通してさまざまな啓示を受けている。この旅の前と後とでは明らかに精神的な変化が生じ、身体もかなり頑健になったはず
だ。そして最大の成果は、巡礼の証書などでなく、道中、苦楽をともにしてきた心から信じ合える友と出会えたことだろう。その存在は神の存在にひけをとるものではなく、その後の人生の宝物になったはずだ。
高潔で過酷な行為を伴わなくとも、神は巡礼者に喜びを与えてくれる。ならば、じつは日常生活の中でもそれは得られるのではないだろうか。旅は非日常的な特別な場所と時間の中で成り立つものだともいえるが、そこで得たものは、その後の日常にも影響を与える。じつは「旅」と「日常」は相互に浸透し合うものだ。澱んだように見える日々の暮らしの中で鈍化した感性を浄化し、そこに埋もれているたいせつなものを感じる能力を甦らせてくれる。旅の効能のひとつは、日常の再生である。ハーペイさんの身の丈巡礼記は、改めてそのことを教えてくれる。
本書には、世界からこの道に集った個性豊かな人々が登場する。ハーペイさんは、ひと癖もふた癖もある巡礼者たちと5カ国語を駆使して交流しつつ、苦闘しながらも楽しむことを忘れずにサンティアゴ・デ・コンポステラをめざす。この旅日記を読んで、サンティアゴ巡礼道のイメージはずいぶん変わった。これなら自堕落な自分でも歩けるかもしれない。良質な紀行文とはやはり、その場所へ行ってみたいと読者の心を駆り立てるものだ。読後、巡礼道の地図を見入って、旅の計画を練っていた。
ジュンク堂書店西宮店 角石美香
著者ハーペイ・カーケリングとともにサンティアゴを目指す巡礼の旅は、人生の縮図だ。その道はまた、自分自身を見つける道であり、神を見出す道である。
勝手な想像で、道行とともに著者が自らのコメディアン人生をもっと語ってくれるのか、と思ったが、自らの来し方を振り返るのは三ヵ所くらいで、その期待は裏切られた。だが、この道行自体の中で出会われる多様多彩な人物の魅力が、そのことを補って余りある。一方で出会いと別れ、再会が次から次へと起こるので、願わくは登場人物一覧が欲しい(巡礼に因み、「聖書」ばりのチェーン式引照でもいい)。
神を見出す道行としての巡礼の旅は、ノン・クリスチャンの日本人には俄かには馴染めないかもしれない。(様々な言語が飛び交う情景も、イメージしにくいか。)それでもラストシーンはとても感動的でした。
ジュンク堂書店難波店 福嶋聡
読書の喜びは知らないことを知ることができるということだと思っています。習慣や文化もそうですが、その本の中で無意識に行われる思考といったようなものが、私にとって程遠いものであるほど惹きつけられて、最後には親近感が湧いてくるからです。本書においてハーペイさんは巡礼をします。長い旅路を自分の足で歩く。たまにズルをして電車に乗るけど、彼はそのことを隠さないとても誠実なコメディアンなのです。巡礼での多くの出来事の中、わたしたちは彼のことをまぎれもなくドイツ人であると思うようになるでしょう。そしてそのことが心理学や社会学といった学術書では書けない書き方で表されています。本書は300万部も売れました。どうしてそんなに売れたのか。彼はドイツでは有名人ではあるけれどそんなに売れるにはきっと「わけ」があります。そしてその「わけ」はドイツに限らず、日本の読者をも惹きつけてやまないものであるに違いないと思うのです。
ジュンク堂書店京都BAL店 市木誉世夫
巡礼の旅! うーん、宗教に距離を感じてしまう私に、この本を読むことができるのか…内心焦りましたが心配無用でした。著者のハーペイさんは難しいこと抜きに「神はいる」と思っている自由で柔軟な思想の持主。ゆえ「泊まるなら清潔なホテル!」とか、時には「列車の旅」をしてみたり…あれれ、ハーペイさんの考え方ってすごく日本人的かも、と親近感が!
いつの間にやらとても魅力的に感じてしまった巡礼の旅、自分を再確認し、前に進むための旅、いつか私も本書片手に歩いてみたい、そして、漠然としている「何か」を感じてみたい、そう思いました。
ハーペイさんの感じる全てが面白く、また、魅力的で…。ノンフィクション、ガイドコーナーは勿論のこと、話題の本のコーナーでも強く販促します。多くのお客様に「読む楽しさ」を感じていただける本だと思います。
三省堂書店有楽町店 小松崎敦子
予想以上に面白かったです。正直に申し上げて、訳文にすると薄れる原文のジョークのノリ(「たぶんこの部分は原文だと読んだ人がニヤリなんだろうな」と推測できてもバックボーンの知識や風習が分からないと笑えない)についていけない部分はありましたが、巡礼そのものについて、色々と発見がありました。「巡礼」と書くから(いや、書かざるを得ないんですが)襟を正してしまいますが、ノリは昔の電波少年の猿岩石に近いものがあるな、と。
オリオン書房ノルテ店 白川浩介
神も魂も自分の迷いも、歩き続けてどうにかするというのはシンプルで楽しそうと単純に。いや、過酷なことこの上ないのはもちろんですが。そう思わせてくれる本だと思いました。もっと長くてもよかったです。
都内某書店員・32歳
何故一人で旅立つのか? 自分が何者かを見つけるのが旅の目的? 旅はそんなことを保証してくれません。それでいいんだと思う。
方向さえ間違えなければ、必ず目的地に着く。だから、目的地に着くまでに、人と出会い、景色を見て、文化の違いに驚いたりして、楽しめばいい。
何が起こるか分からないから旅なんだ!と思っていた方が、目的地に着いたときに、何かが得られる。仕事を休んででも旅に出る価値あり! そんな旅の楽しみ方を見せてくれる本でした。
三省堂書店札幌店 水口由紀
普段、こういったノンフィクションは滅多に読まないのですが、とても新鮮な気持ちで読ませていただきました。ハーペイさんの、さすがコメディアンなだけある、道中のエピソードや突っ込みどころがなかなか面白かったです。漫談のようでした。
それぞれの街の描写も印象的で、スペインのこの巡礼道(この本を読んで初めて知ったのですが)について大変興味が湧きました。
ジュンク堂書店三宮店 楠本杏子
「コメディアンの巡礼紀」ということばからは想像つかない内容でした。最初は仕事に疲れた人の逃避の旅だったらどうしようと(笑)。紀行文はほとんど読まないので、最後まで読み通せるか不安がありましたが、とても楽しく読めました。
一番面白かったのはペルー人(?)のアメリコの話。私は日本人だからハーペイさんのように怒りは感じないけれど、ハーペイさんはアメリコのドイツ観に憤慨している。「ああ、ドイツ人はヒトラーのことを恥だと思っているのかな」と、ここにドイツ人らしさが出ているのかな、と感じました。
その日その日に感じたこと、出来事、それに対する覚えを書き留めるハーペイさんの人柄を想像しながら読みました。その周りを取り巻く仲間たちをあるときは厳しく、あるときは面白おかしく描くのがさすが噺家だな、と思いました。たぶん人に何かを発信し受け取ってもらうことを苦としない人でないと、こんなにいろんな人に出会うこともできないだろう、とおもいます。
だからこそ「神」という存在に執着をもってちかづきたかったのではないかと。たとえば、巡礼という行為そのものがある意味自己満足であったとしても、それは自己と向き合う旅のように思いました。過去を回想し自分の今行っている場所に戻ってくることで新たな自己を発見する旅。だんだんと自分もこんな巡礼の旅をしてみたいと思う本でした。
ジュンク堂書店池袋店 神山葉
「苦手な海外文学かー。しかもまったく縁もない巡礼エッセイかー。コメディアンが書いてるってどんなんよ」と、正直最初は思ってたんですけども。ところがどっこい。いやいやいや、あらあらあら、すらすら読めちゃいました!
ハーペイ氏の語り口が実に軽快でのびのびしていて、まるで漫談みたい。巡礼という日本人にはまったく縁のない旅でも、特別な道であることが伝わってくるし、風景も見えてくるようだし、同じ巡礼者同士の出会いと別れや出来事も愉快で、思いがけず読み入ってしまったよ。でもそれ以上に、ハーペイ氏自身に興味があるのですけども!!
ハーペイ氏がしゃべって動いてるドイツの番組を特別編集で見せてほしい。どんな人なんやろーと興味津々なのです。この本を元に、日本でもTVで特番組んでくれないかなー。もちろんハーペイ氏ご本人を招いて、再現ドラマを見て巡礼旅の時のことを聞いたり、巡礼の解説とか雑学とかとか。いやーこうやって勝手に企画を想像しているとちょっと楽しいぞ。
巡礼について、ドイツやスペインの文化をはじめとするお国事情、ハーペイ氏自身と、実に興味深く面白い旅エッセイでした。
三省堂書店京都店 中澤めぐみ
ゲラをいただいた際は難しい本じゃないかと心配しましたが、巡礼紀行エッセイだとわかって一安心。と同時に、あのみすず書房から紀行エッセイ?と意外に思いつつ本を開きました。サンティアゴにいたる地形や土地について知識はほぼ皆無。三大巡礼道なんてものがあるのも初耳。800キロメートルという距離もなんだかピンとこない。それでも読み進めるうちに、なんだか著者のハーペイ氏と一緒に巡礼の道を歩いているような錯覚をしばしば覚えました。巡礼宿は肌にと合わないとホテルに泊まったり、膝が痛い痛いと泣きを入れたり、巡礼5日目にして巡礼をサボってバスに乗ったり、読むこっちが「甘ったれるな」と突っ込みを入れたくなるほどの貧弱ぶりで、でもその弱さが愛らしかったり、自分の甘えと重なったり、視点がいつも無理のない自分目線で、そのあたりに共感させられてしまいます。特定の宗教に思い入れがない僕も、著者のつぶやきや気付きにドキリとさせられることが多かった。読み終えた時、読み手にも達成感が残るような本でした。
ジュンク堂書店西宮店 地道裕勝
ただの紀行文なら、すらすら読めたかもしれない。でも、サンティアゴ巡礼はただの旅ではないらしい。読むのに時間がとってもかかった!
中断してじ~っと考えたり、風景を想像したり、ツボのわからないドイツのユーモアを理解しようと努めたり、足が痛いだろうと心配したり。考えることが多かった。そしてとにかく、ハーペイさんがぶっ飛んでいて、私を離さない。
どんなに素晴らしいことも、文章にすると悔しいけど途端に平凡に見える。けれど、この本からは少なからず、それを感じることができた。
日々に疲れた人、つまらないと感じている人に特におすすめ。読めば、悩んでいることがどうでもよく思えてくる。「人生なるようになる」この本から教わりました!
三省堂書店名古屋高島屋店 石本恵子
やはり売れっ子コメディアンなだけあって、彼の表現や語り口に随所で笑わせられ、日本でブームになった「猿岩石日記」を彷彿とさせます。でもこの本はただ面白くて笑わせてくれるだけではありません。私は日記を読んでいるあいだ、自分が日々の生活の中で抱えるつらいことや悩みを重ね合わせては、ハーペイさんに励まされ続けました。特にハーペイさんが毎日感じたことを綴る『今日の覚え』は、毎回印象深い言葉ばかりでした。長い長いこの巡礼の旅で、迷ったり、何もかもを投げ出したくなったりする中でも、やめることなくとにかく歩き続けるハーペイさん。そしてこの巡礼の旅をゴールすることができたとき、彼は同時に自分の人生の未来に展望を見出すことができたのですね。そんな彼の姿に誰もが心動かされ、勇気づけられると思います。
三省堂書店神保町本店 嶺浩子
巡礼というものがどのような深い意義があるのか、ヨーロッパの人たちが隣国のことをどのように理解しているか、外国の有名人の名前、土地勘、神とは、など素地がないため、この作家がこういうことを言いたいのだ、という本質的なところは理解できていないと思いますが、物語としては最高に面白かったです。コメディアンだけあって言葉の操り方が巧みで、毎日続く同じような道程の中の出来事を飽きさせることなく読ませてくれました。きっと訳も良かったと思いますが、テンポもよく硬軟を使い分け、登場する魅力的な人物を嫌味すぎずにずけずけと評する言い回しは、読んでいるものの気分を明るくさせてくれるいい作品に仕上がっていると思います。
ジュンク堂書店天満橋店 中村優子
ただただ、2ヵ月間800キロを歩き通すことで、自分と向きあっていく旅。中でも最も印象に残ったのは「ドイツにいると外見は毎日違って見えていたのに、内面はほとんど一定だ。ここでは、外見はつねに同じなのに、内面は刻々と違って見える」。どれだけつらいのかとも思うけれど、そんなことより得ることの大きさが染みて、自分でもこの道を歩いてみたい…となんども思ってしまいました。
ジュンク堂ネットストアHON 原田亜紀子
大変面白く、一気に読み終わりました。巡礼の旅が終わりに近づくにつれ、切なく寂しくなるような気さえしました。はじめは一人で出発した旅が、何者かに導かれるように素晴らしい友と出会い歩みをともにしてゆく過程は、求め、信ずることの大切さを教えてくれるようです。
また、さすがコメディアンと思わせるような話術の巧みさが随所にあり、中盤以降思わず声に出して笑ってしまった箇所がたくさんあります。
われわれ日本人に馴染みのないキリスト教の巡礼の旅。大勢の人がそこに神を求めて集う様子は、古からの信仰が長い間ずうっと大事に継承されてきたんだということを思い知らされます。「レフヒオ」というような無料の宿が町町にかならず用意されているというのも、日欧の文化の違いを感じさせます。種々雑多な民族が入り乱れつつも、やはり同じ一つの文化を形作ってきたヨーロッパ的ありかたというのが、本書を読むととてもよくわかります。
この、ヨーロッパ的な世界観を実感としてわかるというのが、今の時代、とても重要になってくる気がします。
ジュンク堂書店池袋本店 大内達也
この話のなかで著者が巡礼道を歩き通したことで自分がもっと好きになっていくこと、巡礼は命がけでいくものだということ、なんでそこまでやれるんだろうということを、一読して感じました。
“神と私”という件(くだり)がたびたびでてきます。コメディアンということはあまり関係ないなぁと思いながら読みました。日本人とは異なる文化のなかで、自分探しをするときに、宗教が深くかかわっているんだなぁと。
巡礼にはいくつかの決まりがあるけれども(著者は、途中コースを端折っちゃたりするけれど)脱落する人もいるというなか、歩き通したところ、一夜の宿(泊まるところ)をさがす場面も(日本人なら予約なしではいかないのに)印象的です。自分ではできないなぁと、そこまでやるところが強烈でした。
著者は、そんな巡礼を通して、より自分を好きになっていく。これは文学ではなく、やはり宗教、精神の世界の本だ、と思いました。
みすず書房がなぜこの本を出すのか、『狩猟サバイバル』よりももっと驚きを感じました!
岩波ブックセンター S
有名コメディアンの巡礼などと言われると、彼の置かれている状況をつい想像してしまうわけですが、(最初はずっと北野武や所ジョージが頭の中にいる感じでした)この本の芯が結局そんなところにないことに気付くところから彼と一緒の旅に出かけられたような気がします。日本的感覚からすれば全然ストイックでなく、どちらかというとプチブル的な旅にちょっと拍子抜けしつつ、結局そんなことがどうでもよくなるような彼の人間的魅力にぐいぐいひきこまれていく。ダメさ加減がほんとに絶妙。自分を振り返りつつ歩く素直さと頭の固さが両方とも隠すことなく描かれていて、そこに飾り気のない素敵な「彼」を読むことができる。読むのに結構時間がかかる。それがまるで自分の旅のようで面白い。
サンティアゴ巡礼の本は店頭でも売れるほうの商品ですが、この変わった視点からの「サンティアゴ巡礼」をどのようにお客さんに届ければよいのかしら。