みすず書房

ワシーリー・グロスマン『万物は流転する』

齋藤紘一訳 亀山郁夫解説

2013.12.25

「自由であるということは本当に恐ろしいことだ!」

「自由のない国家がつねに自由と民主主義の名において行動し、それに言及せずに歩を進めるのを恐れていた」

『万物は流転する』は、29年間ラーゲリの囚人だった男が、スターリンの死後、釈放されたのちの物語である。
主人公イワンは大学生のとき、哲学研究サークルで独裁政治に反対するスピーチをした。
「自由とは善きもの、命と同等のものである。自由を制約すれば、指や耳を切り落とす斧の一撃のように、人間を損なうことになる」と。それが密告され、逮捕された。

自由が抹殺されたスターリン国家で、密告が奨励された。
恐怖が人々を締めつけるなか、密告で個人的利益を得る者がいた。
普通の人が密告をした。
彼らは優しい息子や父親や夫だった。
科学や文学や音楽を愛し、献身的で親切で、戦場では勇敢な兵士として最後のパンを分けあった。
物欲。自己保存。個人的恨み。臆病。義務感。嫉妬心。密告する理由はさまざまだ。
友人や上司や隣人。同僚。教師。革命の英雄。熱心な党員。
「人民の敵」「国家に不利益をもたらす言動あり」と密告書を書かれた人は、だれでも逮捕される可能性があった。

カバー写真は、小説の舞台となった同じ1954年、アンリ・カルチエ=ブレッソンが撮影したモスクワである。
レーニン、スターリンの肖像写真が飾られる労働者カフェで、男女がダンスを踊る。
長文の解説を付してくださった亀山郁夫先生が、「本書のクライマックスの一つ」「涙なくしては読めない」と記された13章。
夫を密告しなかった罪でラーゲリ送りになった若妻マーシャ、いつか自由になって家族と再会する希望を失わず、極寒にも苛酷な労働にも耐えてきたマーシャが、シベリアの徒刑地でふとしたことからダンス音楽を耳にした瞬間、自分の運命の真実に気づいて大泣きする。
音楽にあわせて踊るブレッソンの写真の中の男女にも、密告する・される日常があった。
IT社会になって、「密告」という古風な言葉が新たにどれほどの複雑さをもつのだろうか。

最終章。主人公は、去っていった親友、彼を尋問で拷問した役人、ラーゲリで彼のパンを盗んだ者などを想い、つぶやく。
「人々は生涯にわたり、悪いことをしていた。しかし、人間は人間であった。 …人々の中のもっとも恐ろしい者たちでさえ、歪んだ恐ろしい心ではあるが、 それでもやはり人間的な心の中で、自由を大切にしていた」

グロスマンの代表作『人生と運命』でも本書でも、最終章で不思議な光が射し込むように感じます。不思議な光。確かめてみてください。

グロスマンが死の床でも手放さなかった遺作『万物は流転する』、特定秘密保護法成立の月に到着です。