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2016.04.18トピックス

鷲田清一「深すぎた溝を越えて――斉藤道雄『手話を生きる』を読む」

[書評]

(出版情報紙『パブリッシャーズ・レビュー みすず書房の本棚』2016年3月15日号一面のために、哲学者・鷲田清一氏より、すばらしい書評エッセイをご寄稿いただきました。著者のご同意を得てここに転載いたします)

深すぎた溝を越えて

――斉藤道雄『手話を生きる』を読む
鷲田清一

思考も記憶も感情も、言葉という繊維で紡がれ、編まれる。言葉のなかで、ひとの思いはある象(かたど)りを得る。そのとき言葉はいつも特定の言語としてある。そのことにひとは人生のある段階ではじめて気がつく。じぶんがこれまで話してきたのとは違う言語があることに。そしてじぶんが話しているのはその一つ、「母語」と呼ばれる言語であることに。

では、「母語」でしか語れない「私たち」は、別の言語をこころの繊維とする人たちとは通じえないのだろうか。分かりあえないのだろうか。日常のちょっとしたふるまいであれば、言葉がなくても通じることは多い。しかし揺れ動くこころのその襞(ひだ)にまで理解の触手を伸ばそうとすれば、翻訳という作業を間にはさまざるをえない。翻訳とは、異なる言語表現をじぶんの理解できる言葉に移し換えることである。

物の世界、ひとが創った制度についてなら、それなりの翻訳は可能だろう。が、ひとの思いの綾(あや)、あるいは肌理(きめ)となると、母語ですらうまく掴めないほどに微妙なところがあって、ましてや異語によって表現されたそれらは正確な翻訳が困難だ。そのとき、そもそも、何をもって正しく移し換えていると言えるのかの根拠があやしくなる。翻訳の言葉はあくまで「私たち」の言葉だからである。「私たち」のなす翻訳が、ほんとうに他者たちの思いの正確な写しであるのかを判断する術を持っていないからだ。他者の思いの綾や肌理として想定されるものも、結局は「私たち」の言葉で想像可能なそれにすぎない。他なるものを理解するとは、それを「わがものとする」ということ、いってみれば「横領」(appropriation)である。「しる」という語が「知る」であるとともに「領る」でもあるように。この限界をひとはついに超えられない。

しかし、あらためて考えてみれば、「私たち」の母語ですら、なにか確定したものとは言いがたい。「かなし」という語の意味一つ取っても、歴史のなかで意味をどんどんずらせてきた。そしてこのずれがそれとの関係でずれであるところのものをピュアなかたちで取り出すことはできない。言葉が写しているものごとそのものも言葉で表わすほかないからだ。それもまたずれの生成のなかにある。だから、言語には「本来の意味」などというものはありえないのだろう。詩作や翻訳においてちょっと歪(いびつ)な言葉の使い方をするなかでも、母語という繊維は変容してゆく。

母語は親しいものではあるが、母語だから正確であるとは言えない理由がここにある。母語が歪な用法を強いられることで翻訳が母語以上に何ごとかを言い当てる可能性もまた、あくまで翻訳の過程で生まれるのである。

刊行されたばかりの斉藤道雄さんの『手話を生きる』を読んだ。斉藤さんは、かつてTVディレクターとして手話の世界を取材するなかで、「ろう文化」の世界が異国にではなく「私たち」のすぐそばにあり、しかもそれが「私たち」にはきわめて見えにくい、ということはきわめて根の深い抑圧の構造をともなうものでありつづけてきたことを知った。そしていまは手話によるろう教育の現場を担う立場にいる。

「日本手話」はろう者の自然言語であること。そして、聴者がろう者とコミュニケートするための手段として考案した「日本語対応手話」はその本質において日本語であり、「日本手話」という自然言語とは決定的に異なることを、迂闊(うかつ)にも私はこれまでよく理解していなかった。そのような迂闊を慮(おもんぱか)ってか、斉藤さんはこう書き足してくれている。日本手話を母語とするろう者が日本語対応手話の話者と話すときに、ろう者は、私たち日本語を母語とする者が「日本語が不確かな外国人と会話している」ときと同じことを感じていると。

「ろう文化宣言」(市田泰弘)によれば、「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」。手話は独自の複雑な言語構造をもち、その言語コミュニティは独自の文化をもつ。言語能力は幼児期における教育に決定的な影響を受けるが、そのろう教育が聴者のほうから構築されてきたこと、いわばその“植民地化”の歴史を、それによってろう者のコミュニティが分裂せざるをえなかった理由をも含めて、斉藤さんはこの本で仔細に報告する。それらを、それこそ内臓を抉(えぐ)るような重い論述がつないでゆく。そして「ろう文化」救出のための関係者の長い足どりを考察したうえで、それを一筋の確かな光へとつないでゆく。

それは、ろう者と非ろう者とが出会いなおす道であり、それぞれに本質的限界をもった手話と音声語とが持続的に接触しあうなかでそれぞれの可能性を更新してゆく道だ。その道を遠望する斉藤さんの眼はしかし、とても慎重である。たとえば、手話が視覚情報で編まれているがゆえに音声語よりも豊かな描写力を備えているのに対し、音声語は単調で抽象的であるがゆえに逆に時空を越えた意味の広がりをもちうる。そのように対比してみると、「映像はイメージを広げるようでいて、逆に私たちの想像力を縛りつけているのかもしれない」というふうに。これは、音声語を母語としそこから別の音声語を外国語として習得するのとは違って、手話を母語としそこから第二言語を習得するときの「格段の困難」を知る人だからこその言葉であろう。が、この困難な道こそ、私たちが先に述べた、翻訳が母語以上に何ごとかを言い当てる可能性にもつながるものであろう。

copyright Washida Kiyokazu 2016


斉藤道雄『手話を生きる――少数言語が多数派日本語と出会うところで』(みすず書房)カバー

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