みすず書房

惜しくも急逝した御園生涼子の遺稿集。竹峰義和「編者あとがき」一部抜粋

御園生涼子『映画の声』

2016.10.26

『映画の声――戦後日本映画と私たち』は、2015年6月に惜しくも急逝した著者、御園生涼子の遺稿集です。著者の夫であり、本書の編者である竹峰義和さんの「編者あとがき」を、一部抜粋してここに掲載します。

編者あとがき

竹峰義和

本書の著者である御園生涼子にとって、映画というメディアは声という形象と不可分に結びついていた。ここでの声とは、台詞や歌、ナレーションなども確かに含むが、しかしそれだけに還元できない一種の身体的な契機であり、視覚的イメージに随伴しつつも、ときに映像や物語に抗うかたちでスクリーンや画面から不意に立ち現れ、私たちに語りかけてくるような、ロラン・バルトであれば「プンクトゥム」と呼ぶであろう何かである。彼女がある映画作品について論じるとき、何よりもそれは、そこから発せられる声を受けとめ、聴き取られたものをテクストへと移し替えていく作業を意味していた。ちょうど大島渚の『儀式』のなかで、少年時代の主人公が地面に耳をあて、地中に響く声に懸命に耳を澄ませるように。

それでは、彼女は映画から、いったい何を聴き取ろうとしていたのだろうか。本書に収められた各論考が示すように、端的にいってそれは、歴史や政治の力学によって固有の場所を奪われ、あるいは共同体の外部へと追放された「他者としての生」の声であるといえるだろう(本書52頁)。非主流派の学生運動家、在日朝鮮人、外地からの引揚者、沖縄人女性、博徒、アイヌとの混血児、広島やくざ……。このような帰属すべき国家や故郷をもたないマイノリティたちは、国民国家の論理とは相いれない他者として、境界と境界のあいだをあてどなくさまようことを余儀なくされる。そして、組織による庇護の埒外に置かれた彼らの身体は、そのヴァルネラブルな様態ゆえに、政治的・社会的・法的な権力が執行される舞台となるとともに、その仮借なき暴力を記録・記憶する媒体となる。著者が大島渚の作品に強く惹きつけられていたのも、通常であれば共同体の視界からできるかぎり遠ざけられ、公的言説から抹消されることを運命づけられた人々に、執拗なまでの情熱でもって焦点を当てているからにほかならない。だが、それと同時に彼らは、暴力や死という、説話的なダイナミズムを駆動するために不可欠な契機と強い親和性をもっているがゆえに、一般に娯楽映画と呼ばれる一般大衆向けの文化商品のなかにもしばしば登場してくる。おそらく、メロドラマややくざ映画といったジャンル形式や、スター俳優という制度的存在は、異質な人々が他者としてスクリーンに現前するさまや、彼らが晒される暴力が観客たちにもたらしうるショックを緩和する装置として機能しているのだろう。そして、映画のなかに表象されたマイノリティたちにたいして、その身に生じた暴力の痕跡を、本書の著者は声ならぬ声として聴き取ろうとするのである。

(中略)

そうした関心のもとに、博士論文の提出後の著者が新たな研究対象に定めたのが、大島渚の監督作品を中心とする戦後日本映画だった。1930年代の日本で、資本主義的な論理に従う「大衆」としての映画観客が、戦時体制への移行に合わせて領土主義的な論理に従う「国民」へと徐々に再編されていく過程を丹念に検証した彼女にとって、それに直接つづく時代、すなわち敗戦というトラウマ的な出来事を経験したあと、紆余曲折がありながらも現在まで連綿と存続しつづけている日本の「戦後」という時代と取り組むことは、必然的な選択だったと言えるだろう。なかでも大島渚は、戦後民主主義という理念のもとで隠蔽され、抑圧された諸々の矛盾や、なおも形態を変えて機能しつづけている領土主義的な排除の原理に目を逸らすことなく正面から向き合い、さまざまなかたちで告発しつづけた。いうなれば、大島作品において一貫して問われていたのは、「他者としての生」の痕跡を、複数の声として、映像という手段をつうじて、いま・ここに響かせることであったのではないだろうか。そして、御園生涼子は、大島渚をつうじてこの声と出会い、それをみずからのテクストのなかで再生しようとしたのだ。すなわち、2013年の監督の死に際して執筆された「オオシマナギサを追悼する」において「とても近しい、しかし決定的に〈他なるもの〉の面影」と呼ばれている、つねに「幽霊のように立ち戻ってくる」声を――「もう一度、わたしたちはオオシマに出会わなければ。もう一度、もう一度。その運命にも似た引力の圏内に入ることを恐れずに、その繰り返されると同時にただ一度でしかない出会いのチャンスに、もう一度賭けてみなければ。ただもう一度だけでも」(本書118頁)。

(中略)

著者にとって書くこととは、つねに全身全霊をかけて取り組まれるべきものであり、対象となる作品との精神的な格闘だった。ひとつの映画を何度も繰り返し鑑賞し、関連文献の抜き書きを大量に作成したのち、締め切り間際に一挙に書き下ろすというのが彼女の書き方であり、神経を極限まで緊張させながら映像を凝視したり、一心不乱にキーボードを叩いたりするさまは、作品から発せられる微かな声を一言も聞き洩らすまいとするかのようだった。結果的に、そのような執筆スタイルが彼女の心身を疲弊させ、生命を縮めることに繋がってしまったのではないかという思いは禁じえない。だが、彼女にとって、それ以外の書き方をすることもできなければ、執筆しないという選択肢もありえなかった。本書に収録された論考をつうじて、読者もまた、著者が追求しつづけた映画の声を聴き取っていただければと思う。

(後略)

copyright Takemine Yoshikazu 2016

御園生涼子『映画の声』刊行記念
松浦寿輝+吉本光宏+木下千花トークショー「戦後日本映画と御園生涼子」

司会・三浦哲哉 11月4日(金) ESPACE BIBLIO(神田駿河台)
御園生涼子『映画の声』(みすず書房)刊行記念 松浦寿輝+吉本光宏+木下千花トークショー「戦後日本映画と御園生涼子」(司会・三浦哲哉)チラシ

刊行記念トークショーが11月4日(金)19:00-20:30、東京・神田駿河台のブックカフェESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)で開催されます(参加費1500円、定員60名、要予約)。