みすず書房

『完訳 天球回転論』 高橋憲一「まえがき」ウェブ転載

『完訳 天球回転論――コペルニクス天文学集成』高橋憲一訳・解説

2017.10.12

(巻頭の「まえがき」をここでお読みになれます)

まえがき

高橋憲一

本書は『コペルニクス・天球回転論』(1992年)の拡大増補版である。旧版には、コペルニクスの主著『天球回転論』の宇宙論的部分(第I巻11章まで)の翻訳と、太陽中心説のアイデアを最初に披瀝した『コメンタリオルス』の全訳が収められ、訳者による天文学史の解説「コペルニクスと革命」が付されていた。刊行以来四半世紀、復刊の希望も幾度となく寄せられ、読者から温かく迎えられたことは訳者の大きな喜びであった。しかし主著の翻訳が部分訳に留まっていることに、訳者としては申し訳ない気持ちを抱き続けてきたが、翻訳のための時間を見出すのは困難であった。

しかし月日の経つのは早いもので、2010年、ついに定年退職を迎えることになった。自由な時間ができ真っ先に思ったのは、コペルニクスの主著の完訳という仕事であった。天動説の泰斗プトレマイオスの『アルマゲスト』の邦語完訳がすでに存在しているのに、地動説のそれがないというのはいかにもアンバランスな状態だ。そう思って翻訳に取り掛かろうとしたものの、以前と同じ態勢に戻すのに結構時間がかかり、結局あっという間に7年が過ぎてしまった。そしてその間に、天文学に関してコペルニクスが著述したものをすべて訳そう、との思いも湧いてきた。そこで『天球回転論』全6巻と『コメンタリオルス』のほかに、「ヴェルナー論駁書簡」も今回新たに加えることにした。断片的なメモや数表等を除けば、ひとまとまりのものとしてコペルニクスが天文学に関して書いたものはこの3編で網羅したことになる。(なお、コペルニクスの理論的革新の歴史分析にとって重要なメモ──通称「ウプサラ・ノート」──は、本書第IV部の5.2節にその写真版(図5.1)とともに翻訳と分析が採録されている。)

また今回新たに翻訳した部分については、できるかぎり詳しい訳注を加えるよう努めた。旧版(1992年)以降に出版された研究文献の主なものは、訳者の目に留まった範囲内で追加しておいた。またそれに合わせ、第IV部の解説「コペルニクスと革命」では、旧版の記述を補足・敷衍し、最新の研究状況を伝えるものにしようと努力した。また重要語の訳については推敲を重ねた。しかし、コペルニクスが地動説に到る道筋に関する前著の主張(5.2 節)については、基本的な論点の変更はない。どこまで実現できたかは心許ないが、コペルニクスが天文学について思索し著述した事柄について、本書が読者にさまざまな刺激を与えることができればと願っている。本書に収録した3編の天文学論考の執筆順序は、コメンタリオルス(1510年頃)、ヴェルナー論駁書簡(1524年)、天球回転論(1543年)であり、天文学に馴染みのない読者は、コペルニクス以前の天文学の歴史的展開を第IV部でまず頭に入れてから、本書の第II部でコペルニクス天文学の概要を読み、第I部や第III部に読み進むとよいかもしれない。

ここ数年、翻訳に没頭した私の脳裏にはさまざまな思いが浮かんできた。ここでは二つのことを記しておきたい。その一つは、天動説と地動説という大きな違いはあるものの、コペルニクスの主著は、その構成法、古代の観測データの尊重と継承、理論構成の原理的な構えと技法において、天動説の大成者プトレマイオスの『アルマゲスト』といかに似ていたかということである。コペルニクスの主著を熟読した人のうちに、コペルニクスを「天文学を再興した第二のプトレマイオス」(ティコ・ブラーエ)とか「われらの世紀における卓越した天文学の再興者」(クラヴィウス)と称えた人物がいるのも不思議ではない。ケプラーに至ると、「コペルニクスは自然というよりもプトレマイオスを模倣しようとした」と評価されてしまうのも、ナルホドと思わされる面がある。

そして、この関連でもう一つの思いも浮かんでくる。物事の劇的変化や180度の転換を、哲学者カントの表現を受けて「コペルニクス的転回」と称することがある。また地動説の提唱を「コペルニクス革命」と称して、その革命的性格を強調することもしばしばなされる。しかし、もしコペルニクスの科学上の「転回」を「革命」と言ってよいとすれば、その革命は静かに始まったのである。革命の喧騒とは無縁に、そして人々の気づかないままに、そしてさらに重要なことに、当人もその帰趨を自覚しないままに、それは始まったのである。科学における革命というのは、伝統に沈潜し、自らの問題を新たに発見する者がなすからではないだろうか。伝統を打ち破る革新は、ここからしか生まれようがないのではなかろうか。そんな思いがしきりに浮かんできたのである。

そして歴史を学ぶ意義はおそらくここにあるのではないだろうか。現代の最先端の科学理論を学ぶことだけが「科学リテラシー」ではない。今では廃れてしまった科学理論を学ぶことによる恩恵は、虚飾に彩られた教訓ではなく、科学活動や理論的革新の実例を知り、そこから学ぶことにあるだろう。それは通常われわれが科学とその発展の経緯について教えられ想像するよりも遥かに豊かなイメージを与えてくれる。古典に触れる意義を、本書の読者が味わってくれることを切に願う。そして、科学と人類の未来について思いを馳せていただければ幸いである。

2017年初夏 福岡にて

(筆者のご同意を得て転載しています。なお、
転載にあたり、傍点と最終行を割愛しました)
copyright Takahashi Kenichi 2017