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2018.10.01トピックス

ついに新版、木庭顕『現代日本法へのカタバシス』 民事法に焦点を絞り大改訂

木庭顕 『新版 現代日本法へのカタバシス』

あるときナポリの古本屋で、16世紀の人文主義者が2001年の東京へ旅して故郷にいる親友の法学者に宛て書き送った書簡をまとめたという、小さな奇書を見つけた……
長く入手困難だった異色の表題作が甦る。しかもこんどは、民事法に焦点を絞り込む一冊となって生まれ変わる。
なぜなら、「民事法こそは法のコアであるという認識に基づく」(はしがき)から。

「カタバシス」は「下降」ないし「下降行」を意味する語であり、転じて冥府に降りること、そして過去の人物たちに遭うこと、さらに転じて時間軸を遡ること、を指す。本書の場合、ギリシャ・ローマへ遡ることを意味しそうであるが、実は逆で、私としては現代へと下降するつもりである。(「はしがき」)

降りる先が、本書の場合、日本の民事法の混乱の坩堝であるということになる。その混乱について私なりに展望を与えたいという趣旨である。その意義は限られるが、敢えてギリシャ・ローマから降り立つ以上、その方面から見た画像があまりない、月の裏側の写真のようになればよいと考える。(「はしがき」)

ここでは選挙さえやっていればデモクラシーが存在すると言うらしい。選挙をしたからと言って、選ばれた評議員が「多数者」そのものであるわけではない。このような誤解をしたポリスは一つもなかった。このように誤解をすることにより初めてここではデモクラシーの存在が信じられているのである。そのように考えるからこそ、人々は具体的な人物を選挙するというよりは、その代替像ないし符号(simulacra et signa)を選ぶのである。代替像ないし符号(simulacra et signa)ならばいっそ無害ではないか、動かしてやらなければ動くわけでもないし、と君はうんざりした顔で言うだろう。ところがそれは他方では、特定の実際の人物の代替像ないし符号(simulacra et signa)でもあるのである。人々が代替像ないし符号(simulacra et signa)を選んだつもりでも、さらに先送りの関係が働いて、特定の実際の人物が“populus”(国民)として立ち現れ、しかもそれが“dominus”[所有権者、主、主人]であるというわけである。(1 「現代日本法へのカタバシス」)

ここには政務官(magistratus)というものは存在しないに等しい。評議員が選ぶ政務官が少数と、各地方都市(municipia)に一人だけ、政務官と呼びうる者が居るが、何と言っても彼らは裁判をしない。公の訴追(causa publica)すらしないのである。そのかわり、膨大な数の公共奴隷(servi publici)が存在して、何と彼らが、廷吏(lictor)などであるのではなく、裁判をし公の訴追を担うのである。(1 「現代日本法へのカタバシス」)

実は事柄の根底に、ここでは誰も占有というラテン語を正しく使えない、という事情がある。これには流石の君も弁護を放棄せざるをえないであろう。レナートの遙かに鋭い観察によれば、ここでは実は「妨害」(vis=実力行使)のことが「占有」(possessio)と呼ばれているらしい。これを職業とする者さえいて、彼らは「占有屋」(possessarius)[もちろんこのラテン語はジョヴァンニの造語にかかる]と呼ばれているという。(1 「現代日本法へのカタバシス」)

彼らのあべこべのlocatio conductio はもちろん立派な名前を持っていて、レナートは私にそれを教えてくれたが、私にはどうしてもそれを覚えることができない。ギリシャ語の“οἰκέω” に似た音韻の語[「うけおい」のことか]であったと思うが、定かではない。仕方がないので君にはCONDUCATIOと書いておくことにしよう。(1 「現代日本法へのカタバシス」)

このようなタイプの共同事業をきちんと規律する精緻な概念構成をわれわれは用意して待っているだろうか。そのようなものとして最も有力であるのは、この判決に教えられなくとも、組合であるが、組合に関する言説のどこをつついても気の毒なP とその訴訟代理人に対して目の覚めるような法的助言を与えるためのヒントは出て来ないのではないか。否、そもそも言説自体極めて乏しい。仕方なく、たとえ租税回避のためとはいえ、英米法のpartnershipを借りて来なければならない。もしそうだとするならば、われわれのいかにもみすぼらしい事案をあざ笑う実務は日本には存在せず、却ってこの事案は一種典型的な光景であるという可能性も否定し切れない。(6 「東京地判平成25年4月25日(LEX/DB 25512381)について、遙かPlautus の劇中より」)

簡単に看て取れるように、「返礼戦略」というくらいであるし、「関係契約論」がバックボーンになっているから、このモデルはréciprocitéを切り札として成り立っている。だとすれば、これがもたらすあらゆる不透明が織り込まれていると言わざるをえない。成功の幻想は、委任型市場がもたらすコストをその内部化により下方転嫁して得られた競争優位にすぎなかったのではないか。その優位が何らかの事情で享受できなくなったならば、裏切りに遭うか、切り捨てるか、のどちらかになる。つまり、仮に委任型市場型取引を偽っていたとしても、今や偽り切れずにあからさまにréciprocitéの牙をむかざるをえなくなるのである。それをまた法的形態に反映させざるをえなくなる。また、紛争を多発させる。
委任型信用衰退の背景には、単純な占有ないし占有破壊的実力支配(「資源開発」など)つまり産業化の痕跡があり、所有権概念による法学的概念武装もベースとして横たわっているであろう。(7 「現代日本取引社会における委任不全」)

実質的な意味における民事法とは、まさに市民社会ないし経済社会の状態そのもののことである。これを常に問うことは法律学の責務である。まずは(とりわけ若い研究者が分野を越えて)このような問題にチャレンジする、ないし少なくともこのような問題意識を維持する、ことを切に呼びかけたい。(8 「日本の民事法が抱える問題」)

少なくとも私はローマ法について新たな見通しを得るに際して社会自体について新しい見通しを得る歴史学の作業を以てした。返す刀で現代日本の市民社会ないし経済社会に関して同様の作業をすることが要請される。民事法が鋭く所与に対峙するのでなければ市民社会も経済社会も立ち上がらないのである。(8 「日本の民事法が抱える問題」)

この新版にはあらたに、単行本未収の組合論(6)、書き下ろしの委任論(7)を収める。また昨2017年の債権法改正(「民法の一部を改正する法律」成立)を受けて書き下ろされた補足的論考5「債権法改正の結末」をも収める。さらに旧版の「『ローマ法案内』補遺」は、全面改稿されて本書をしめくくる長文論考8「日本の民事法が抱える問題」となった。
旧版の第三部を構成していた掌篇はこのたび割愛された。が、法学と法学教育への深い思い、そして将来の若い世代によせる明るい期待は、むしろいっそう、全篇の底から響いてくる。

  • 本書は、2011年に羽鳥書店から刊行された『現代日本法へのカタバシス』の新版です。上記の大幅改訂がほどこされています
  • 旧版『カタバシス』と相前後して初版刊行された『ローマ法案内』も、『新版 ローマ法案内』が、やはり大幅改訂をへて勁草書房から2017年に出ています(「改訂の方針は叙述を多少簡潔にするというものであった。しかし結果として、基幹の部分の説明を全面的に入れ替えることとなった」『新版 ローマ法案内』はしがき)
  • 9条2項「戦力不保持」を徹底的に問う『憲法9条へのカタバシス』。先に今年4月みすず書房より刊行



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