みすず書房

『構築の人、ジャン・プルーヴェ』早間玲子編訳 「おわりに」より抜粋

[17日刊]

2020.02.12

ジャン・プルーヴェとの出会いに導かれて

早間玲子

本書のII部の元である『ジャン・プルーヴェ──工業生産から生まれる建築のすがた』が1971年に発刊されると、ジャン・プルーヴェは私たち所員三人に丁寧にサインを入れて一冊ずつくださった。はじめのページに、「本書は長い修練の一生の記録である。その道はこれから君たち若者が続けていくのだ。En très grande amitié à Reiko, Si gentille, si compétente et si efficace dans le travail en commun. Ce livre révèle une longue vie de recherche. Que les jeune dont vous êtes continuent. Jean Prouvé」と記された。私は今から丁度半世紀前、彼の最後の建築設計技術事務所であるパリのブラン・マントー通りのアトリエで、6年半の間ジャン・プルーヴェと協働した。

私は1966年末に、正式にはフランス政府招聘日仏工業技術交換留学生としてパリに到着した。前川國男建築設計事務所在籍のまま、翌年早々から、在仏日本大使公邸のインテリアを受注したシャルロット・ペリアンの手描きデッサンを元に、内装の実施設計図(建設用の設計図)を制作していた。ジャン・プルーヴェはペリアンのデザインするインテリアの骨組みとなる素材の選択や構造体の技術をバックアップしていて、ペリアンのアトリエにしばしば立ち寄った。私は、ここで初めてジャン・プルーヴェに出会う機会に恵まれたのだった。

新しい日本大使公邸は、パリ市美観指定地区にあり、大統領官邸の並びに位置していた。公邸のプロジェクトは現存建築物の地下階を残して解体された地上階を新築するもので、既に工事は始まっていた。新しい建築物の外壁には、美観地区委員会の要望に沿って、ハイテクノロジーを駆使したアルミニウム製のカーテンウォールが選択され、その設計はジャン・プルーヴェに委任されていた(施工はプルーヴェが建設部責任者であったCIMT社。本書参照)。そのため、私は公邸の現場でも何度かプルーヴェに出会う機会に接した。その現場で私は彼の建設的思考に打たれた。音もなく少しずつ育まれていった私の願望は強く、変わることはなかった。公邸竣工を迎えると、直ちに私はジャン・プルーヴェのアトリエの扉を叩き、入所を果たしていた。

それは彼の最後の事務所、パリのブラン・マントー通りのアトリエである。プルーヴェの言葉を借りれば、「この時期に僕は小規模なものばかり設計していたと言われる」時代であった。所員は四人、本書にも登場するセルジュ・ビノト、そしてプルーヴェが教鞭をとっていた著名な夜学の大学、国立工芸院の学生ジャック・ベディエ、経理事務一切を担当していたモニック・ベルナール、そして私であった。

半世紀前のフランスでは未だ日本人への認識は薄く、その上、女性の建築家は指で数えられるほど稀であった。それでも私は、ジャン・プルーヴェからフランス人男性所員とまったく変わらぬ待遇を受けたのだった。日々、プルーヴェと紙の上で対話を交わし、工場に出向いては部品を検査し、建設現場では監理の役目に就いた。

一点の曇りも無い敬虔な気持ちで創る行為を学んだ6年半。日々は充実し、年月はまたたく間に過ぎていった。

ある日、私はジャン・プルーヴェから、「僕はもう七十歳を過ぎた。そして君は、そろそろ独立する頃になったと思う。ここで独立するにはフランス共和国の建築家のタイトル資格が必要だ。取得できなければ、日本に戻って事務所を持ちなさい」、それから続けて「ただ、日本人女性の君にとってはフランスのほうがやりやすいと思う」と言われた。

それ以後、三年間にわたるタイトル取得の試練が始まった。私には、ジャン・プルーヴェの強力な支持があった。しかしながら、この挑戦は日仏間の文化交流にも関わる事項であり、一個人のやる手続きではなかった。そのことは後になって判ったものの、当時は知らぬが仏の言葉どおり、私は的を射ようとわき目もふらず突進した(……)。

1976年1月、それこそ雛鳥が親鳥のもとを離れるように、ジャン・プルーヴェの温かい視線を背に受けて、私はアトリエを開設したのであった。思い返せば、ジャン・プルーヴェは心から日本に好意と敬意の気持ちを持っていたと確信できる。前川國男を始めとする先人が築いた遺産の恩恵であることも意識しながら、私は、日本人としての後世への責任を心に刻んで、当時ほとんど男性の仕事の分野であった建築家として、第一歩を踏み出したのだ。

私がジャン・プルーヴェのアトリエに入所した当時、プルーヴェは国立工芸院教授職を引退する一方で、ポンピドゥー文化センター建設のために組織された、世界の建築家を競わせる国際競技設計の審査委員長に任命されていた。その他にも社会的に重要な幾多の役割を果たしていたが、その上相談事を抱えて門をたたく人々は跡を絶たず、世界各国から建築家や学生が訪れた。プルーヴェの形容詞のように“天才”という言葉を人々が口にするたび、「こんな嫌な言葉はない、ゾッとする、わかりますか?」と当惑していたのが思い出される。実は私自身、本書の編集を通じてプルーヴェの言葉を深く読み込んでいるうちに、その理由を理解できたのである。

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(筆者のご同意を得て抜粋転載しています)