みすず書房

最近旅した、沖縄の大神島には、遠見台へ登る道の途中に、石の、円形の、井戸があった。汲み上げる道具もなく、ただ、空へむかって口を開いている。のぞきこめば、底のほうには、浅くたたえられた、暗く透明な水があり、積み上げられた石の隙間から、青草が勢いよく生え伸びていた。

目をあげると、真っ青な空。赤いハイビスカスの生垣が続いている。

深夜になれば、満天の空から、星のひとつ、ふたつが、間違って井戸のなかへころがり落ちてきそうな気がした。そう思うと、もうその水音を聴いたことがあるような気がするばかりか、かつてここに立った、わたしでない誰かもまた、同じことを感じたに違いないと思われてくるのだった。

井戸をめぐる、そんなこころが、本をめぐる本書の題名につながった。
——「あとがき」より

本を読む者を深くさしぬく孤独、そして歓びと哀しみ。エッセイ、書評、詩、書き下ろし短編小説をおさめた「本をめぐる本」。濃密で、うっとりする味わい。

目次

本のなかをぐるぐる
 怒濤の小説  水村美苗『本格小説』
 作品のにがみは心臓のにがみ  ディーノ・プッツァーティ『石の幻影』
 深い夢のなかで アントニオ・タブッキ『黒い天使』
 愛すべき蜂の巣みたいな超物語  キアラン・カーソン『琥珀捕り』
 黄色い竜巻のおこる庭で  梨木香歩『家守綺譚』
 生と死のあわいを濡らす幻雨  フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』
 放埒な孤独  岩阪恵子『掘る人』
 女の書く小説  エリザベス・ボウエン『あの薔薇を見てよ ボウエン・ミステリー短編集』
 タフな台車  スチュアート・ダイベック『僕はマゼランと旅した』
 狂人小説  飯島耕一『小説平賀源内』
 「無」の心が書いた壮大な叙事詩  草森紳一『荷風の永代橋』
 画家の生活  クリスティン・テイラー・パッテン、マイロン・ウッド写真『オキーフの家』
 「間」に宿る旅の重さ  駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生 アメリカの小さな町で』
 エルクの目は何をみるか  エリザベス・ギルバート『巡礼者たち』
 14歳の旅立ち  石田衣良『4TEEN』
 初めてのセルビア文学・感情の深度  トラゴスラヴ・ミハイロヴィッチ『南瓜の花が咲いたとき』
 灰色の夢見る心  ユベール・マンガレリ『しずかに流れるみどりの川』
 殺伐とした希望  『フラナリー・オコナー全短篇 上・下』
 野鳥のエロス  アナイス・ニン『小鳥たち』
 見開かれたままの子供の目  橋本治『蝶のゆくえ』
 梅の実が落ちた  庄野潤三『庭の小さなばら』
 下る女  大原富枝『婉という女 正妻』、アリステア・マクラウド『冬の犬』
 約束の延期  サミュエル・ベケット『ベスト・オブ・ベケット1 ゴドーを待ちながら』
 生き残った者の目を借りて   大橋仁『目のまえのつづき』
 熊太郎の魅力  町田康『告白』
 下町嫌悪  川田順造『母の声、川の匂い ある幼時と未生以前をめぐる断想』
 名前と人生  ジェンパ・ラヒリ『その名にちなんで』
 のりしろのある文章世界  堀江敏幸『いつか王子駅で』
 文と人の関係  荒川洋治『夜のある町で』
 うごめく漢字の解放劇  多和田葉子『飛魂』
 なにがなんだかわからない  ミルチャ・エリアーデ『エリアーデ幻想小説全集 第二巻』
「私たち」という匿名  空間  村上春樹『アフターダーク』
 屋根一面に、馬の屍体  黒井千次『一日 夢の柵』
 不思議なレンズ  稲葉真弓『花饗』
 「現代」のぬいぐるみ  穂村弘『本当はちがうんだ日記』
 情緒なんて嫌い  リディア・ディヴィス『ほとんど記憶のない女』
 腑に落ちる文章  内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』
 ここへ立ち戻って考えよ  池田晶子『残酷人生論』
 「わたし」を解き放つ  管啓次郎『オムニフォン〈世界の響き〉の詩学』
 広々した「気宇」  飯島耕一『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』
              『白紵歌』『小説・六波羅カプリチョス』
 創作の科学  河野多恵子『小説の秘密をめぐる十二章』
 言葉の「息」  谷川俊太郎『シャガールの木と葉』
 消えかかったけもの道  古井由吉『詩への小路』
 西陽の射す本の世界  津島佑子『快楽の本棚 言葉から自由になるための読書案内』
 「私」の魅力的な不在感  大竹昭子『図鑑少年』

海の本

本のそとをぐるぐる
 ぱた
 むかし、「初恋」を買った
 読書日記
 われらの獲物は、一滴の分泌液
 湯気のむこうに
 烈しい読書体験
 もやりと漂った古本の匂い
 読書という行為の源をさぐって
 空想書店——本の匂いに誘われて

世界にただ一冊の本

あとがき
初出一覧

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