みすず書房

自然と権力

環境の世界史

NATUR UND MACHT

判型 A5判
頁数 592頁
定価 7,920円 (本体:7,200円)
ISBN 978-4-622-07669-8
Cコード C1010
発行日 2012年7月9日
備考 現在品切
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自然と権力

原子力、気候変動、食の不安、生殖のテクノロジー…。現在、いたるところで環境が政治の課題となり、人間の自然との関わりが権力の行使と結びついている。だが、自然と権力の結びつきは20世紀後半に初めて成立したのではない。本書は多様な地域と時代をめぐり、グローバルな構造とローカルな特異性を照らし合わせながら、自然と権力の関係の歴史的展開を論じる。人間と自然のハイブリッドな諸結合の組織化、解体の過程を緻密に描き出し、環境への眼差を一新する環境史の試みである。
本書には、日本の環境史を論じた書き下ろしの一節を加え、さらに日本語版への序文とあとがき(「フクシマの事故の後に考えたこと、そしていくつかの個人的告白」)が寄稿された。ドイツを代表する環境史家の主著、遂に待望の邦訳なる。上質な思考と史的研究の該博さに裏づけられたスケールの大きな世界観で、環境を考える際には、まず参照したい重要な一書である。

目次

日本語版への序言——二度の日本旅行を終えての問い
ドイツ語版への序言

第 1 章 環境史を熟考する
1 歴史的環境研究における視野狭窄と袋小路
2 悪循環の単調さと解決策の迷宮
  付論 リービヒ理論——環境史の基礎にある排水溝問題
3 時間の深みへ、そして自然理想の謎めいた再生力
4 樹木かヒツジか——環境史における価値判断の問題
5 歴史的説明としての生態学——マヤ文化の崩壊からアイルランドの大飢饉まで
6 未知の大地——環境史は秘められた歴史か、それとも周知の歴史か

第 2 章 自給自足と暗黙知の生態学——人間と自然の原初的共生関係
1 最初に火があった——世界中に広がる焼畑農業と環境史における放火癖
2 人間と動物——狩猟と飼いならし
3 庭と果樹
4 農民と牧人
5 「共有地の悲劇」と苗芝の災厄——前近代農業は「無意識の地力酷使」だったのか
6 母なる大地と天にある父——宗教の生態学について

第 3 章 水、森林、権力
1 水利工事、支配、そして生態学的連鎖反応
2 エジプトとメソポタミア——原型的な対比
3 灌漑された段々畑——社会的・生態学的小単位農耕
4 模範像そして恐怖像としての中国
5 日本という選択肢
6 狭小な空間における水文化——ヴェネツィアとオランダ
7 マラリア、灌漑、森林伐採——自然の復讐、そして生態学的蓄えの庇護者としての風土病
8 地中海地域の森林伐採と「生態学的自殺行為」は見せかけの問題か——自然と調和した浸食作用と誤解を生みやすい歴史化について
9 ヨーロッパにおける森と支配——開墾運動から森林規制法の時代まで
10 初期的危機意識の定点——都市と鉱山業

第 4 章 環境史における分水嶺としてのコロニアリズム
1 モンゴル帝国と「微生物による世界の統一」
2 海外コロニアリズムの生態学的ダイナミズム
3 グローバルな眼差しの成立——近代的環境意識の植民地的・島嶼的起源
4 インドの環境史における植民地的、ポスト植民地的転換点
5 ヤンキー・エコロジーとムシク・エコロジー
6 環境史におけるヨーロッパの特殊な道という問題 ——コロニアリズムの植民地権力への反作用
 
第 5 章 自然の限界にて
1 最後の蓄えへの突進
2 「堆肥あるところにキリストあり」——休閑地から「堆肥崇拝」と農業の政治化へ
3 木材不足の警鐘、植林運動、そして生態学的森林弁護論の成立
4 「甘く聖なる自然」——近代の自然宗教の多義的な展開
5 自然と国民——保護されるべき自然の具体化の途上で
6 最初の工業的環境危機と近代的危機管理の基本形の成立

第 6 章 グローバル化の迷宮のなかで
1 環境史の最も深い転換点——失敗に終わった世界のアメリカ化
2 血と大地——自給自足主義の錯乱
3 環境への憂慮の根底にあるもの——原子力の黙示録と癌の不安
4 環境運動の科学的、精神的、物質的起源
5 ネパール、ブータン、そして他の頂上からの眺め——ツーリズム、開発援助、宇宙飛行から見る環境問題
6 環境政策における権力と不確実性の諸問題

終章 政治的議論における環境史の役割

日本語版へのあとがき——フクシマの事故の後に考えたこと、そしていくつかの個人的告白
訳者あとがき
原註
人名索引
事項索引

訳者からひとこと

このたびヨアヒム・ラートカウの主著を日本の読者のみなさんに紹介することができて、とても嬉しく思っています。ラートカウは、おそらく、いまドイツで最もユニークな仕事をしている歴史家の一人だと言えるでしょう。彼の仕事のユニークさは、歴史学における既存の専門領域の枠組みにとらわれない分野横断的な多面性に現れています。『自然と権力』に先立つキャリアのなかで、ラートカウは政治史、経済史、技術史、森林史、心性史といった分野で研究を行い、徹底した調査にもとづく優れた著作を発表してきました。また、それらの著作で扱われたテーマは多岐にわたります。アメリカの欧州政策に対するドイツ人亡命者の影響、ドイツにおける産業界と政治権力の結びつき、戦後ドイツにおける原子力産業の形成と反原発運動の展開、木材を主要なエネルギー源とした近世ヨーロッパ社会の技術文化、そして20世紀始めにドイツ社会を席巻した神経過敏をめぐる言説の広がりといったテーマに、ラートカウは取り組んできました。また、『自然と権力』の発表後は、マックス・ヴェーバーについてのユニークな伝記的研究や、世界各地で1970年代以降に展開した環境運動の歴史を論じた大著を発表しています。

そういうわけで、ラートカウの仕事は歴史学の特定の専門分野やひとつの主題に限定することができず、領域横断的な様相を呈しているのですが、まさしくそうした多彩で、一見したところ支離滅裂にすら見えかねないラートカウの仕事の中核をなすのが、今回訳出した『自然と権力』という著作です。ラートカウがそれまでに行ってきた多彩な探求は、この著作においてはじめてひとつの大きな流れに合流し、大胆な環境の世界史の試みとして実を結んだのです。ラートカウにとって、環境史とは、歴史学における特殊な一部門ではありません。それはむしろ、歴史学の諸部門が合流する「全体史」の要となる要素として理解されています。そこでは、これまで政治史や経済史、社会史や心性史、技術史や文化史が論じてきた諸テーマが、環境との関わりにおいて新たな視点から検討されることになるのです。

本書においてラートカウは、多数の事例研究を参照しつつ、様々な歴史的状況のもとで環境を形作る諸要因を慎重に比較検討しています。ラートカウが試みるグローバルな比較は、地域的・歴史的な多様性を消し去るのではなく、むしろそれを際立たせることによって、一般化された説明図式や性急な価値判断を退け、私たちの環境に対する眼差しを刷新し、思考を柔軟かつ複眼的にしてくれます。『自然と権力』は、いまや空虚なスローガンと化している「持続可能性」が歴史のなかで帯びてきた多様な意味合いを明らかにし、環境をめぐる諸利害の調整に関与する「権力」の様々な機能ぶりを浮かび上がらせることで、現在の環境政策に歴史的な奥行きを与えることに成功していると言えるでしょう。
 ところで、エコ(環境)をめぐる問題は、原子力や気候変動がそうであるように、一義的な因果関係の立証を困難にするリスクの見通しがたい性質ゆえに、しばしば対立する立場の間の激しい論争にさらされています。また、エコに関わる政策や、人々がエコなトピックに対して示す反応も、つねに矛盾に満ちています(たとえば純然たる大企業向けの消費刺激策でしかないエコカーやエコ家電の優遇措置を考えてみればいいでしょう)。したがって、エコなテーマについて、ひとは実に容易に批判を浴びせかけることが可能です。しかし、エコな人々とアンチ・エコな人々との激しい対立は、「ある特定の歴史的状況のなかで人間にふさわしい条件のもと生き延びていくこと」という共通の利害を見えなくさせてしまう点で、不幸なものだと言えるのではないでしょうか。

ラートカウは、本書の日本語版のために新たに書き下ろされた「フクシマの事故の後に考えたこと、そしていくつかの個人的告白」と題された文章のなかで、自身の原子力論争の経験を振り返りつつ、「原子力エネルギーに批判的な書物は、どのみちすでに原子力技術に反対である人々にしか読まれないのであれば、たいして役には立たないのだ」と述べています。実際、原子力発電所の安全性を確保するには、そして、廃炉まで含めた脱原発の実行を確実にするためにも、電力業界や原子力技術の専門家との協力関係は不可欠です。したがって、対立だけでは原子力の問題を解決することはできないのです。異なる諸利害と行動のオプションを明示する公共的な議論の設定が必要になります。「原子力ムラ」が批判されねばならないのは、原発推進の立場以前に、そうした公共的議論を封殺する仕組みとして機能しているからでしょう。

原子力問題を論じる書物に言えることは、環境問題を扱う書物にも当てはまります。ラートカウが『自然と権力』で試みていることのひとつは、思考を硬直させる紋切り型を突き崩す、意外性に富んだ発見と洞察をふんだんに提供することによって、環境というテーマをめぐって対立する人々の間の対話を準備することです。それは環境政策の議論のための風通しの良い場所を用意することを意味します。環境史研究は環境政策にいかなる寄与をなしうるのかという問いは、終章で詳しく論じられていますが、本書の全体を貫く問いかけでもあるのです。訳者としては、この書物が、環境問題を憂慮する人々と環境というテーマに懐疑的な人々の思考を等しく挑発し、活発な議論の糸口となることを期待しています。

最後にもうひとつ、この書物の魅力に触れておきましょう。ひょっとしたら、本書の最大の魅力は、ラートカウの「放浪する眼差し」が誘う諸時代と諸地域の遍歴にあると言えるかもしれません。ラートカウの環境史を読み進める読者は、膨大な文献を使いこなす著者の導きで、遠い過去の諸時代へ、また未知の景観へと誘われます。そして、そのときに読者はまた、そうした景観のなかを進む旅人ラートカウの歩みと眼差しをも行間に感じとらずにはいられないのです。あるインタビューでラートカウは、1996年にインドとネパールの森林史の書物をリュックサックに入れてヒマラヤを旅していたときに、『自然と権力』の執筆を決意したと語っています。ラートカウの環境史の魅力の根底には、おそらく史料批判と旅の経験の幸福な融合が見出されるのです。

なお、本書はドイツでもアメリカでも、これまでに高い評価を得ています。ドイツでは多数の書評で絶賛され、『政治的エコロジー』誌によって、2000年の「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれています。2008年に翻訳が出たアメリカでは、世界史協会(World History Association)が本書の英語版に著作賞を与えています。また、アメリカ社会科学史学会(Social Science History Association)は、本書を特集した特別号を近々刊行予定とのことです。

訳者を代表して 海老根剛

書評情報

金森修
図書新聞「2012年下半期読書アンケート」2012年12月22日
小倉孝誠(フランス文学・文化史)
図書新聞「2012年下半期読書アンケート」2012年12月22日