みすず書房

レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』

コミュニティの核になる「とぴきり居心地よい場所」  忠平美幸訳 マイク・モラスキー解説

2013.10.25

家でも職場や学校でもなく一個人としてくつろげる〈サードプレイス〉。その最も代表的な特徴としてオルデンバーグが挙げているのは――

一、地位や身分、年齢にかかわらず誰でも受け入れる〈平等化の機能〉をもつ。
一、〈会話が主な活動〉で人柄の魅力や雰囲気こそがものをいう。
一、いつ訪れてもそこには〈常連〉がいて、新参者と常連の交流が店に活力を与えている。
一、飾り気や衒いのない〈地味で慎ましい外観〉。

……なじみの赤ちょうちんが思い浮かんで、思わずニンマリする人も多そうだ。

巻末に、『呑めば、都――居酒屋の東京』(筑摩書房)の著者マイク・モラスキー先生(ご著書への親しみと敬意から、私は密かに心の中で「モラ先生」とお呼びしている)に解説を寄せていただいた。日本の居酒屋はもちろん、ジャズ喫茶論(モラ先生はジャズピアニストでもある)も著わすなど、日本の戦後期の色香を残す飲食店文化に心ひかれ、研究対象とするモラ先生は、大学でのゼミのフィールドワークとして「自分の感覚を頼りに探した飲食店に一人で行くこと。ただし、チェーン店はダメ」という課題を出している。課題に取り組んだ女子学生が得た体験は、日本の〈サードプレイス〉の懐の深さを教えてくれる。
http://www.molasky.jp/pdf/20130725izakaya.pdf

モラ先生は、居酒屋以外の日本独自の〈サードプレイス〉の例として、喫茶店や銭湯を挙げている。日本の喫茶店が「ひとりで入り、“休憩”を求めている客が多く、他者と会話を楽しむような環境はほどんど見られない」独特の文化であることも、もちろん承知。「ただし、定義をどこまで広げたらよいか、広げすぎたら概念としての有用性を失うのではないかという問題も考えなければならない。言い換えれば、サードプレイスをどのように規定すべきか。」

一見、出入り自由、多様な人が集まってくる場所ならどこでも〈サードプレイス〉? とも思わせる。が、私の〈サードプレイス〉が「居心地よい場所」であるのはなぜか、他の店となにが違うのかと思いめぐらせてみるうち、とても大事なことがあるように思えてきた。

私事になるが本書の編集中の今夏、はじめてイタリアを訪れた。もっとも印象深い思い出となったのは、飲食店でのやりとりと料理の味だ。サンドイッチを買ったバールでは、どこの店でも代金をいつ払えばよいのか分からない、というより決まっていないようだった。「お勘定は?」と財布を持ちあげてみせても、「え、別に後でいいよ」とどんな店でも不思議な顔をされる。明らかに観光客の私でさえ信用してくれているようで、素直にうれしくなるではないか。
町のトラットリアでは、ウェイターやウェイトレスの動きがきびきびとしていてカッコいい。注文を取るのにメモはなし、サーブの合間にはテーブルからほどよい距離をとり、視線を店内にすべらせ軽やかな身のこなしでお皿をさげたり、追加の品に迷う客と小気味よく言葉をかわす。最後の皿をさげる時、必ず「うちの料理、気に入ってもらえた?」と言葉をかけられる。愛想がことさらいいわけでも気配りを暗に誇示するのでもない。ただ、この空間を切り盛りしているのは(だからもちろん、代金をとりっぱぐれたりはしない)俺だ、私だという自負が伝わってきて、気持ちがいい。

具体的な特徴はともかく、「とびきり居心地よい場所」であることが〈サードプレイス〉の絶対的条件であるのは間違いない。人が通いたくなるような居心地よい場所には、その場を運営している人の状況に応じた心配り――臨機応変な対応、軽妙な会話、ほどよい距離感――が生きている。そしてそういう店は、たいてい料理も美味しいものだ。

うまい飲食店が多数ある町には、必ず独自の文化がある――これはオルデンバーグの『サードプレイス』の裏返しのテーマだ。このことは、真剣に考えてみるに値する。今晩の店選びから、文化への参加は始まっている。