みすず書房

詩集にすることは、ひとつの賭だったと思います……

吉増剛造『怪物君』

2016.06.14

「怪物君」を詩集にすることは、ひとつの賭だったと思います。途方もない詩が書物のかたちになるためには、途方もない力の結集が必要でした。

いま開催中の「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」(東京国立近代美術館)で「怪物君」の自筆原稿を見ることができます。詩集・怪物君は3つの巻物から成っていて、「Ⅰ」が10メートル、「Ⅱ」「Ⅲ」はそれ以上の長さの、驚くべき「原稿」です。

まず、3つの巻物に刻まれた詩を打ち込んでいくのですが、ワープロの変換機能がまったく通用せず、そのうちに「読み」と打ち込むと「黄泉」、「の」は「乃」と、機械のほうが怪物君仕様になってしまいました。頂上の見えない山に登るような打ち込み作業でしたが、「アリス、アイリス、」「澄ミ、澄ミ、ジャスミ、」「ル、ル、」という音の響き合いから様々な小道が出現し、それらが手を結び合うのを目撃する過程でもありました(というわけで、まずは「アリス、アイリス」と声に出して読むことをおすすめします)。

そしてここからが本番です。怪物君の組版は、通常の本の3倍、4倍、いや10倍以上の大変さ、難所多数のため、ひとりの凄腕オペレーターに専属で組んでもらうことになりました。こちらでするページレイアウトおよび文字指定と、オペレーターによる実現との間には、とてつもなく膨大で繊細な作業があります。そして出来上がったものは、「究極の組版」と呼びたくなるものでした。さらに校正が入り、怪物君はその姿をどんどん変容させていきます。多彩で膨大な本を日々組んでいる印刷所の底力を見た思いです。

印刷も難所の連続でした。「絵文字」と文字の調子、ドローイングの怪物君の色加減、そしてカバーの色。「怪物君」の題字の筆触、色、紙の風合い、そのすべてを同時に実現させるにはかなりの技術を要し、ぎりぎりの淵を見事歩ききった、という感じで出来上がりました。「非常時」の瞬間的な判断が、各工程に集積しています。

製本がこれまた大変で、たとえば表紙には柔らかい素材を使っているのですが、もともと扱いが難しい上に、丈のある本ではさらに難易度が増し、相当の手間がかかっています。また、ドローイングの文字ぎりぎりでの断ち落とし、片観音の貼込み、箔の押し加減など、幾重もの手わざが要求されています。

こうして、途方もないのに柔らかく軽い、という、作者自身を彷彿とさせるような書物の姿が生まれました。すべての作業が終ったあと印刷所の方にお礼を言ったら、「特殊なことをしたわけではなく、本づくりに必要なことを最大限しただけですよ」と言われ、なるほど、これほどの技術も熱量もすべては本のためというのが、本づくりの本質であるのだなと実感しました。「怪物君」という詩の強度が、本というものの原点を最大限に引き出したともいえます。こうして読者のもとに旅立っていった『怪物君』、今度は読むことによってどう変容していくのか楽しみです。

(編集部 鈴木英果)

◆「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」

東京国立近代美術館 6月7日(火)-8月7日(日)

現代詩の最先端を疾走する詩人中の詩人、吉増剛造(1939-)の、約50年におよぶ止まらぬ創作活動を立体的に紹介。注目の〈怪物君〉自筆生原稿は、ドローイングとも、水彩とも、コラージュとも、パフォーマンスの結果とも呼べる、触感あふれる数百枚。このほか映像、写真、オブジェ、録音した自らの声などさまざまな作品・資料を一挙公開。イベントも多数。

吉増剛造『怪物君』(みすず書房)カバー

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