みすず書房

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松山巖『猫風船』

奇想あふれる連作掌編小説

「一編、一編、読み終えた後の感覚が、夢から覚めた時とそっくりだ」と鴻巣友季子氏(「週刊現代」7月21日号)。
「スナップ写真のようにして、現代人の肖像を写し出す。背筋がゾクッとするような短篇づくし」と池内紀氏(「週刊ポスト」7月20日号)。
「文学という言語表現の、教訓とも道徳とも無縁な実質がまざまざと輝き出て」いると川村二郎氏(「読売新聞」7月8日)。

『猫風船』は都心に住み続ける「私」が、「町を、路地を、ふらふらさまよい歩き、知り尽くしているはずなのに、行く先々で、思いがけない時空の裂け目に遭遇する」連作掌篇小説です。とはいえ語り手は「日々の裂け目は認めても、それを生み出している背景についての違和感を、簡単には消そうとしない」(堀江敏幸氏「毎日新聞」7月8日)。
小説作品として遇する書評のため言及はあえて避けられていますが、この的確な指摘を端的に「町殺し」への違和感、と還元することもできるでしょう。批評家として、著者は空中権の拡大解釈により東京都心部がふたたび大型再開発の波に呑まれたことを批判しています(『住み家殺人事件』2004年、小社刊)が、「町が町であった頃」へのノスタルジー、それをも超えて「東京をおもふ」気持ちが異界の数々に反映しているかのようです。だからこそ、「受け身を装いながら〈私〉は飄々とそれらにあらがい、顔のない塀に同化するよりも、不思議な人物や出来事と接触する自由を選ぶ。嫌われてもけっしてへこたれないゴキブリの生命力や、演奏会場で鳴き出した一匹の蝉の歌を支持する。ひとまずは身を任せて、猫車の自在さで路地を進み、不思議な出会いを繰り返しつつ、壁の外を肌で感じ取っている」(堀江氏)のです。

そしてつい先日の野口武彦氏の評では「四十一場の白昼夢は、どの一つをとっても、予知夢に特有の濃厚な臨場感に満たされている。…現在時は幻在時に居住まいを変え、迷路は歩いてゆけば冥路につながる。…この回廊に連なる親しげな異界風景は、幻想の産物ではなく、予知像の正確なスケッチなのではあるまいか」(「朝日新聞」7月29日)。
作者が「現実そっくりの異界」で繰り広げる「魂のフィールドワーク」(野口氏)とは、日々殺されてゆく町、陽の目を見なかった町、来るべき町の「魂のフィールドワーク」でもあるのではないか。
――と、いささか還元の度が過ぎてしまいましたが、著者自身はインタビューのなかで、のほほんと「子どもじみて考えていて、ふっとアイデアが出るのが楽しい」「どう取るかは読者の勝手」などと発言しております(「京都新聞」7月22日)。では鴻巣氏にならって皆様、「ささ、ご一緒にまいりましょう、奇想の森へ」。




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