みすず書房

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中村圭志『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』

宗教というものを信じない、ごく平均的な私たち日本人にとって、キリスト教はしばしばちょっとしたコンプレックスの対象になってはいないだろうか。「キリスト教の精神が分からなければ西欧の芸術(文学や美術)は分からない」と言われたり(そう言う人がじつは平均的な日本人だったりする)、「愛」とか「敬虔さ」といった言葉を聞くたびに、何か高邁で気高い思想がそこに秘められているような気がして、そんな言葉を自然に口にできるキリスト教信者は凄いなあ、それにひきかえ自分は、なんて卑下してみたり……。

そんな人はまず、本書の冒頭のつぎのようなアドバイスでほっとしていただきたい。
「“信じない”一般読者は、あまり“信じる”とか“信じない”とかいうことにこだわって宗教にアプローチする必要はないと思います」。
なぜそれでいいのか。著者は続けて説明する。
「信者とは“イエスが何者であるかを知っている”人のことではなく、“イエスが何者であるかを知りたい”と思って探究を続けている人のことだという言い方もできるかもしれません。そういう意味では、“信じない人”(外部の人、あるいは懐疑的な人)と“信じる人”(信者)との間に、知的理解において絶対的な境界線はないと言えます。信者の世界と非信者の世界とは事実上ずるずるとつながっているのです」。
伝道なかばにして挫折し、逮捕され、裁判にかけられ、処刑されたイエスがなぜ神なのか。ここはむしろ、処刑こそがイエスの“正しさ”と裁いた側の“不当性”を証明する、と考えられないだろうか。イエスは処刑されたあと復活する。ここもまた非信者には(信者にも)、理解しがたいところだ。ただ、「復活したイエスが町なかを歩いて世間を騒がせたとは、福音書のどこにも書いてありません。(…)顕現体験があくまで一部の支持者たちのプライベートな体験であったことが分かります」。このようにキリスト教の奇蹟とは、かならずしも信じなければ理解しえない特殊なロジックの産物ではない。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といった、どこか禅問答のようにも響くイエスの謎めいた言葉。これらも、謎めいているから深遠な訓えがこめられている、というよりも、律法に背かずみずからの訓えも守ろうとする、イエスのタフ・ネゴシエイターぶりに驚く、という読み方もできる。

本書を座右に、新約聖書をロングセラーの伝記物語として繙いていただきたい。そう、キリスト教なんて怖くない、信じなくても分かるところは分かる。分かりにくいところは信者にも分かりにくいからロングセラーなのだ。




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