みすず書房

イメージが動くとは。英語圏にもまだない初のガニング論文集

トム・ガニング『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』長谷正人編訳

2021年12月 9日

カバー写真
キッチンチェアを飛び越えるオーギュスト・リュミエールを捉えたリュミエール社の瞬間写真

本書は、アメリカの初期映画研究やメディア史研究を代表する学者として知られるトム・ガニングが、2001年から14年までに執筆した多様な映像文化に関する諸論考を、私たちが独自に編集した日本語オリジナルの一書である

驚くべき該博な知識に基づいて多様な視覚文化を扱いながらも、ガニングはこれらを通して、ほぼ一貫して同じテーマを追求しているように見える。それが、私たちがこの論文集を編んだ理由でもある。ガニングは、映画やアニメーションといった映像文化を基礎づけている、イメージの〈動き〉もしくは〈運動〉が、なぜ人間にとって魅惑的なものとして現象するのかをさまざまな角度から探究しているように思えるのだ

(長谷正人「はじめに)


スクリーン上で小刻みに揺れていた静止画(スティル・イメージ)が、動きの激動に服従するまさにその瞬間に――厳格な不動性と認識可能な動きとの間の、また宙吊り化された時間と再捕捉された時間との間の唯一の要に――リュミエール家の両義的な遺産が姿を現わすのだ。シネマトグラフが驚異と実験の時代の幕引きをしたように思えるとしても、それはまた魅了の新たな領野を、つまり装置の魅力に潜在的に従属するような領野を切り開くばかりでなく、この視覚的幻影の両極を予見するような、つまりイメージの固定化とその動きへの変容の両方を予見するような領野をも切り開いたのである

(第一部「遊戯するイメージ」第1章「視覚の新たな閾」)

何物かの現前のなかに私たちを置くものとしての(そしてバルトにとってはとりわけ過去の時間の現前化としての)写真という記述は、インデックスという概念を超えて探求される必要がある。このことをさらに探求するために、写真によって引き起こされた実際の視覚的経験をもっと追求する必要がある。そこでは、視覚的幻影(イリュージョン)に対する私たちの喜びが、インデックス性と同じくらい重要な役割を果たすことになるだろう。そして、私たちが幻影(イリュージョン)を扱おうとするのであれば、デジタル革命が可能にした写真の像(フォトグラフィック・イマジュリー)との戯れは、その魅惑についての理解をより深めるための、完璧な遊戯場/実験室を提供してくれると思われる

(第2章「インデックスの何が問題なのか? あるいは、さまざまな偽造写真」)

コミックのダイナミックな性質は、読むという行為――読者/観者とコミックとの間の参加的相互作用(インタラクション)――を考慮に入れない限り、形式的な記述の手からは逃れてしまう。コミックは不活性な対象ではないが、体験されるためには読まれなければならないのである。読むことを遊戯めいたものにするコミックの力は、なぜコミックが子供を引きつける魅力を持つのかをある程度説明してくれる。それは子供たちが、書かれた記号による体制へと自分を引き渡すという、避けられないことだがしばしば恐ろしくもある課題をまさに習得しているところだからである。コミックは私たちに、読むことは想像力を解放し、またさまざまな枠組みを拡張することによって、支配的で硬直したプロトコルを超え、それを破壊できると示してくれるのだ

(第3章「継起性の芸術」)


映画と写真についての縮減されたインデックス理論への狭量な固執によって私たちが強いられてしまった、実在する個別のものを示すという字義通り性とは異なって、メッツが強調するように、映画的な現実性の印象は、物語世界すなわち映画によって創られる虚構世界に対して影響を及ぼすものであって、それゆえいかなる既存の現実との排他的な一致や指示という拘束からも免れているのである。メッツの考えでは、映画的運動が持つ「人を確信させる前代未聞の能力[……]ただ想像的なもののみがそこから恩恵を受けた」のである

(第二部「〈動き〉としてのイメージ」第4章「インデックスから離れて」)

個別の静的なイメージへと分解しようとする知性の根強い習性に対して、運動は一つの挑戦を投げかけた。映画フィルムやクロノフォトグラフ上において運動を個別のイメージへと分解すること、これこそがベルクソンによって「映画的(シネマトグラフィック)」と呼ばれることになる歪曲であった。しかし、実際に映写された動きは、映画の限界を露呈するどころか、物質が動きへと変容するというこのスペクタクルを私たちに見せてくれている。初期映画における運動ジャンルは、見せる(ディスプレイ)ことの新しい可能性を通じて、動きの多様な可能性を賛美しているのである

(第5章「動きのアトラクション」)

フェナキスティスコープとその後継者は像(イマジュリー)の性質における閾を飛び越えたのだから、この閾にしばらく立ち止まってみる価値があるだろう。文化の始まりから、俳優やダンサー、操り人形や自動人形、または影や描画像が物理的に動くことにより、運動は芸術作品のうちで一定の役割を果たしてきた。しかし、これらの機械的な装置によって、私たちは光学的に作り出された動くイメージを実際に見ることになったのだ。私はこのことが、イメージの歴史に革命的な瞬間を徴づけているのだと主張したい――〔…〕はっきりと言わせてほしい。これらの装置は動きを表象しているのではない。動きを作り出しているのだ

(第6章「静止したイメージと動くイメージのあいだの戯れ」)


私はこの衝動をもっと以前に、つまり、セルロイド・フィルムの発明以前にまで遡り、この衝動のもつ魅惑の源泉がメタモルフォーゼの表現にあることを明らかにしてみたい。もし写真の歴史を、瞬間を像へと凝固(フリージング)させることによってカメラ・オブスキュラ内の逃げ去る映像を永遠に定着しようとする試みとしてアプローチすることができるのだとしたら、映画(シネマ)の発明を、映像の解凍(アンフリージング)、つまり運動の基礎にある複雑な変容=変形への、映像の回帰として記述してもよいのかもしれないのである

(第三部「アニメーションという魔術」第7章「変容=変形する(トランスフォーミング)イメージ」)

確かに瞬間写真が時間と行為の単位としての瞬間を具体化するのに対して、動くイメージは持続の連続性を体現しているように見えるかもしれない。しかし、こうしたイメージ技術について子細に検討するならば、それぞれが他方からその効果を引き出していることは明らかである。瞬間写真のイメージは、静止性のなかで、動きの描写に突き進もうと張りつめている。他方すべてのアニメーション機器は、その作動において、静止したイメージを利用することによって運動の知覚を生み出している

(第8章「瞬間に生命を吹き込むこと」)

私たちが知っている身体を喚起させ、かつそれを超え出るような、生きている身体のイメージを創造したいというファンタジーは、新しい理論と議論を惹起する深遠な多義性をもっている。このファンタジーにおいて、写真とアニメーションが絡み合っていることは、ゴラムの創造プロセスが示しているとおりである。こうしてアニメーションと運動写真は、重要な形式的差異を否定することのないまま、動いている身体や形態を描出し、イメージに命を与える(アニメイティング)ことで、新たなファンタジーを創造し、古(いにしえ)のファンタジーを再生するという企図を共有するのだ

(第9章「ゴラムとゴーレム」)


「アトラクションの映画」(1986)の強力なインパクトから四半世紀以上。初期映画研究・メディア史研究の泰斗ガニングが2000年代以降に執筆してきた論考の数は、本書のために編訳者・訳者チームが選定にあたっていた時点でおよそ100にものぼっていた。

その思考は「アトラクションの映画」よりもさらに深化していた。入念な検討をへて9編に絞り込まれた、鮮やかな〈動き〉の視覚文化論。それらは「映像に関する私たちの思考を再起動させてくれるような圧倒的な力をもつ」(訳者あとがき)。

翻訳は練りに練られ、各章は絶妙の配列で三部構成に編み上げられた。

英語圏にもまだない初のガニング論文集が、日本語版独自編集によりとうとう実現しました。

* 「アトラクションの映画」は『アンチ・スペクタクル』(長谷正人・中村秀之編訳、東京大学出版会、2003)http://www.utp.or.jp/book/b303090.html所収