みすず書房

新刊紹介

ゾルゲ神話を超えて

2022年10月21日

  • 当ウェブサイトのためにご寄稿いただきました

清水亮太郎
(防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官)

20世紀最大のスパイ、リヒアルト・ゾルゲにかんする画期的な資料集が翻訳、出版された。ゾルゲを中心とする国際諜報団が、東京から「ヴィースバーデン」(ウラジオストックの符牒)を経由して、無線電信でモスクワに送った情報について、これまでの研究は、ゾルゲやその右腕だった尾崎秀実、そしてきわめて有能なアシスタントだった宮城与徳らの警察・検察に対する供述調書に依拠していた。それが近年のロシア側の資料公開によって、実際にモスクワに届いた電文や書簡が利用可能になったのである。

アンドレイ・フェシュン氏は、旧ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のアーカイヴを入念に探索し、1930年から45年の間における、ゾルゲ(ゾルゲ検挙後は駐日ソ連大使館)とモスクワの情報本部のやりとりを網羅した資料集を出版した。そのうち、1941-45年分をまとめ、詳細な解説を付したのが『ゾルゲ・ファイル 1941-1945――赤軍情報本部機密文書』である。

いうまでもなく、1941年は、6月に独ソ戦がはじまり、12月には日本の真珠湾攻撃により日本、アメリカが第二次世界大戦に参戦するという国際政治の激動の一年であった。1933年以来日本滞在が8年に及んでいたゾルゲは、一日も早い帰国をモスクワに訴えながらも、最後の力を振り絞って日本の対ソ政策にかんする情報収集に全力を挙げた。

なかでも最大の成果とされているのが、1941年7月2日の御前会議における「南進決定」の情報をモスクワに伝えたことである。この報告は、マッカーサーの情報参謀だったチャールズ・ウィロビーによって、「ゾルゲの『日本軍はソ連攻撃の意志なし』との情報に基づき、ソ連はシベリア師団を西部戦線に送ることが出来、モスクワの防備を完うすることができたのである」(『赤色スパイ団の全貌』)と評価され、「20世紀最大のスパイ」説の根拠となった。

しかし、ゾルゲが7月3日に送った電文(本書199頁)を見れば分かるとおり、実際にはゾルゲは、御前会議決定における「南北併進」――両論併記、非決定(決定の先延ばし)の内容をそのまま伝えていた。ゾルゲの最大の関心は、あくまで「北進」――関東軍によるソ連に対する「不意打ち」を回避することにあったのである。

9月半ばに今年中のソ連に対する侵攻はないという確定的な報告を行った後、ゾルゲの報告の中心は、日本の南部仏印進駐に対するアメリカの経済制裁により悪化していた日米間の交渉に移っている。ゾルゲは、おそらく尾崎を通じた近衛内閣上層部からの情報により、日米交渉の過程、そして日本の支配層内でソ連、アメリカに対する政策をめぐって対立、分裂が激化していることを伝えている。当時、ドイツ軍の激しい攻撃を受けていたモスクワの情報本部では、ゾルゲの情報だけでなく、中国の「重慶政府関係者」からの情報を考慮し、日米の妥協がありうるとみて日本に対する警戒を解くことはなかった。この情報本部の特別報告「対外政策をめぐる日本の支配層の闘い」(本書302頁)は、スターリン、モロトフ、ベリヤなどソ連最高指導部に送付されている。

この資料集の最大の「売り」は、ゾルゲの送ったインテリジェンスに対する情報本部の評価やそれを受けて作成された情勢判断の報告書が含まれていることである。ソ連指導部にとって、ゾルゲの情報は、グローバルな諜報網から寄せられる判断材料のひとつにすぎなかった。このような意味で、冷戦期、米ソ両大国がそれぞれの思惑にしたがって築いてきた「ゾルゲ神話」は解体されつつある。

ただし、ゾルゲや尾崎が凡百のスパイであったわけではない。アメリカの日本研究者、チャルマーズ・ジョンソンは、「彼らほど知的なスパイは現代史上まずいないだろう。二人とも金が目当てでのスパイなどではない。その動機は政治的なもの」だったと論じた(『ゾルゲ事件とは何か』)。本書には、権力機構を前にした、供述調書における独白とはまた別の知性が露呈しているはずである。

ウクライナ侵攻を続けるロシア・プーチン大統領は、映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』Qui êtes-vous Monsieur Sorge ? (日仏合作、1961年)を見て、ゾルゲに憧れてKGB(国家保安委員会)に入ったという。プーチンは、スターリン時代以来のソ連情報機関の伝統を復活させ、「偽情報」(ディスインフォメーション)を含む、「積極工作」(アクティブ・メジャーズ)をIT技術を駆使して諸外国で展開していると指摘されている。GAFAMという巨大プラットフォーマーによる情報の寡占状態に加えて、大国主義の亡霊に衝き動かされる情報機関由来とおぼしき情報が氾濫する現在、情報はいかに世界を形成しているのか。批判的な知性はいかにあるべきなのか。関心を持つものが手にとるべき書物である。

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「ゾルゲ事件」(全4巻)普及版刊行

シリーズ「新資料が語るゾルゲ事件」刊行にあわせ、『現代史資料』に収録されていた「ゾルゲ事件」全4巻を新たに普及版で刊行
(A5判並製 2022年10月)