みすず書房

絢爛豪華な食の絵巻――そんな表現がぴったりの一冊

R・ローダン『料理と帝国――食文化の歴史 紀元前2万年から現代まで』 ラッセル秀子訳

2016.05.26

絢爛豪華な食の絵巻――そんな表現がぴったりの一冊。紀元前2万年の穀物料理から現代のハンバーガーまで、世界の食文化の興亡をたどる。古今東西、圧倒的な数の料理が登場。社会、政治、経済、宗教との関係は? 食文化史でまず一冊と言うなら、この本だ。

レイチェル・ローダン「はじめに」より

〔本書の方針について〕

食に焦点を置くことで、本書における歴史についての記述はすでに出版された本を補足するものとなり、また競合するものとなる。食というテーマはいかにもシンプルであり、私の作業は絞られた。
まず、飢餓や飢饉については述べないことにした。それは食の歴史ではなく、農業、運輸、社会・政治の歴史だからだ。また、食の歴史を美味しさなど美的価値観を目的にした進歩として扱うのではなく、植物や動物を食べられるようにする新しい方法の習得と普及としてとらえた。農業革命(あるいは農業の変遷)や緑の革命のような、農業の歴史には焦点を置かなかった。
奇妙だと感じる人は、たとえば建築や、衣服、運輸の歴史が、それぞれ石切や伐採、羊番や綿花農業、鉄の採掘などの歴史を中心にしていないことについて考えてみるとよい。石や木材、ウール、綿、鉄は大切な原材料で、それぞれ建物、衣服、自動車に肝要な要素だが、歴史を動かしたり、歴史がたどる道を決めたりはしない。同じように、料理の様式の歴史は、それ自体がテーマとして扱われるべきであり、農業の歴史の付け足しのように扱われるべきではない。

私は予備分析に政治的な側面も取り入れた。国というものができてから、もっとも広く食べられた食は、もっとも力のある大きな政治的単位の食文化だった。そして過去4000年においては、それは帝国だった。
ここでいう帝国とは、実にさまざまな方法によって、軍事的、政治的、経済的、文化的な力を世界の大きな部分に対して及ぼした、さまざまな種類の国をひとくくりにした言葉である。入植者、外交使節、兵士、宣教師、商人など、移住者や旅行者は、それぞれの食文化を行き先の地、大使館や駐屯地、修道院、包領にもたらした。遠くの地に行く途中、あるいは海を越えて、自国の食を再現できるように知識や調理用具、植物や動物を持っていった。食は帝国とともに広がり縮まったのだ。

キビとコメの籾殻を取るのは……(本書21頁)

だが、だからといって、ある食文化イコールある帝国という等式をつくるのは安易すぎる。まず、移民や商人、宣教師は帝国の境界に制限されたことはない。さらに、外部者は常に、成功している国や帝国を模倣したいと考えてきた。ほとんどの人は、「食は人なり」と考える食の決定論者であるため、ある食の成功をその国家の食文化のおかげだと考える。結果として、成功した帝国の食文化は、征服者に取り込まれ、その国境をはるかに越えて使われ適応した。ペルシャはメソポタミアの食文化を、モンゴルはペルシャや中国の食文化を、古代ローマはギリシャの食文化を、日本は20世紀はじめ、イギリスとアメリカの食文化をそれぞれ取り入れた。

食文化の普及と採用におけるプロセスの結果は、古い食と新しい食の切れ目のない融合という意味での「フュージョン」でもなければ、まったく新しい食をつくりだしたわけでもなかった。調理人は自国の食事観に反することのないような材料、道具、技術を取り入れた。その食文化の基本的な構造はそのままで、ある果物ではなくほかの果物を使い、金属のフライパンがなければ土鍋を使った。

新しい食事観を取り入れたあと(このような場合も古い食文化を再編しなければならなかった)新しい食文化がつくられた。新しい食事観は政治や経済、宗教、人間の体、環境などについての新しい考えから生まれた。孔子、プラトン、アリストテレス、共和政ローマ、マルクス、または釈迦、キリスト、教父、マホメット、カルヴァン、ルター、あるいは道教の導師、ヒポクラテス、パラケルスス、西洋の栄養学者などの価値観や考えに触れないで食の歴史を語ることはできない。彼らの意見に従った者は、最初の数十年や数世紀には少数派だったが、既存の食を再編し、国が取り入れるまで新しい考えに沿うようにした。

マンハッタンの三番通り246番地のA&P店。1936年……(本書396頁)

したがって、食の歴史には認識できるパターンがあった。それは機械的でもあらかじめ決められたものでもないが、無作為なできごとの連続でもない。食文化は、新しい技術が発見され、新しい植物が取り入れられ、あるいはそれが移民によって移されるなか、ゆっくりと進化してきた。
ときどき、新しい価値観が哲学者や予言者、政治理論家、科学者によって提議され、それがある文化や国に受け入れられると、一世代あるいは二世代という短い時期で新しい食文化がたちまちつくられた。否定された食事観は忘れられたわけではなく、記憶に残り、何世紀かあとに主要な食文化の批判として引き合いに出され、あるいはその改革のきっかけになる。たとえば、18世紀のヨーロッパでは、古典派が共和政の食に目を向けた。そしてこの繰り返されるパターンに重なるようにして、穀類食の習得によって起きた上流食(high cuisines)と下流食(humble cuisines)の格差と、それが20世紀になって富裕国では消滅したことにより、食の歴史にひとつの道筋がつくられた。

本書の全八章は、世界の広い地域において食文化がどのように広がってきたか、そしてそれがどのように世界の食文化に貢献してきたかを述べている。本書で「仏教食」という言葉を使うとき、それは共通しているが必ずしも同じではない食事観によってつながっている食文化全体を指している。
ある大きな食文化においては、あるときははっきりと、あるときはそうでもなく、上流食と下流食の違いがある。食文化が広がるとき、ほかの食文化と触れ、それに合わせたバリエーションができる。また、食事観や技術が変化し、新しい資源が生まれたり失われたりするなか、ほかのバリエーションもできる。文脈から、こういった区別がはっきりとわかることを願う。

(本書「はじめに」7-9頁、ウェブサイト転載にあたり小見出しと改行を加えました)

◆『パブリッシャーズ・レビュー』6月15日号一面に武田徹氏エッセイ

タブロイド版出版情報紙『パブリッシャーズ・レビュー』6月15日号一面には、本書『料理と帝国』をめぐって、ジャーナリスト武田徹氏(恵泉女学園大学教授)にエッセイをご寄稿いただきます。