みすず書房

J・M・クッツェー『世界文学論集』

田尻芳樹訳

2015.11.27

J・M・クッツェーの小説『マイケル・K』(くぼたのぞみ訳)を筑摩書房で編集担当したのは1989年。この作家とのご縁がこれほど長く続くとは思っていなかった。今より本が売れた当時としては地味な初版部数だったが、『マイケル・K』は、ちくま文庫、岩波文庫に入って、そのたびに読者を増やしている。

90年代に入ると、クッツェーの翻訳が、旧作、新作とりまぜていろいろな版元から刊行されていった。しかし読者として、一作ごとに趣向を凝らすクッツェーを体感することは難しいままだった。生身の作家がようやく感じられるようになったのは『少年時代』からである(99年にみすず書房から単行、その後、自伝的三部作の第一部となり、現在では『サマータイム、青年時代、少年時代』としてインスクリプトから決定版が刊行されている)。三人称で書かれていても、ここには少年の「僕」がいて、素直に心を動かされた。ところが、これもまたクッツェーの一面に過ぎなかった。

まもなく『恥辱』が話題になり、ノーベル文学賞を受賞。初めてご本人を見たのは、2006年のこと。早稲田大学の国際ベケット・シンポジウムのために来日したクッツェーの講演を聞きに行った。壇上の作家はスマートで、表情をあまり変えぬまま、かなり難解なベケット分析を淡々と講じた。一見すると「とっつきにくい人」という風評にたいして、田尻芳樹氏はこう書いている。「実際に会ってみると、実に細かいところまでこちらを気遣ってくれる優しく温厚な紳士だということがすぐにわかる。他者とどう接するのかという倫理的な問いを突き詰めた人ならではの物腰なのだろう。」(『をちこち』24号、2008年)

こんど彼の批評のエッセンスを一巻に収めた『世界文学論集』を出したのを機会に、これまでの小説のことを思い出している。〈小説家〉クッツェーと〈批評家〉クッツェーは、「別個だとするのはナンセンスである一方、彼の小説を評論で解明できるというような単純な関係もない」と田尻氏は訳者解説に書いている。ちがいない。

それでも、照応に気が付くと面白い。たとえば小説『鉄の時代』で、語り手=ヒロインのミセス・カレンがバッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の最初のフーガをピアノで弾いている。外でそれを聞いているホームレスの黒人を意識しながら。一方、「古典とは何か?」(本書所収)と題された講演でクッツェーは、15歳の体験を語る。ケープタウン郊外の裏庭をうろついていた彼の耳に隣の家から聞こえてきて、曲名も知らぬまま彼を凍りつかせたのは、バッハの同作品だった。演奏者/聴取者の目くるめく逆転がここにある。それに、「古典とは何か?」の講演は『鉄の時代』の翌年におこなわれたものである。

さっき国立国会図書館サーチで「クッツェー」を検索してみたら、73件がヒットした。今ではクッツェーを対象とする作品論・作家論の数も増えているようだ。欧米のように、彼の評論やエッセイがペーパーバック版で小さな書店にも並ぶことにはならないだろうが、図書館においてであっても、この『世界文学論集』に出会っていただきたい。