みすず書房

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カリール・ジブラーン『人の子イエス』

小森健太朗訳

シリア砂漠を1200キロ、車で走る旅をしたことがある。
旅の起点は、都市全体が世界遺産に登録されている中世の迷路のようなアレッポだ。シリア、レバノンなどの東地中海は、最初期の頃からキリスト教を育んできた。アレッポにはギリシア正教、カトリック、マロン派、アルメニア教会などの各教会が並びたつ地区がある。
さらにアレッポ周辺には、500を超えるビザンチン時代の集落の廃墟が点在する。なぜ人が住まなくなったのかは、地下水を使いすぎたとも、気候変動のせいともいわれるが、謎らしい。
廃墟をいくつも訪ねて回った。車窓からはときどき羊の群れが見え、オリーブ畑、背の低い葡萄畑がオアシスのありかを示している。
砂漠の中に石や煉瓦を積み上げた教会や人家が残っていた。教会のかたわらには、葡萄搾りとオリーブ絞りのための石の桶が置かれていた跡や、全身を水につける洗礼のための小さなプールがあった。キリスト教の遠い原風景のひとつを見た思いがした。

『人の子イエス』のなかで、イエスを知る(架空の)レバノン出身の弁論家は、イエスの話しぶりについてこう証言する。

こんなふうにイエスは物語を語り始める。
「かつて一人の富者、あまたの葡萄園を持てり」
あるいは
「羊飼い、夕刻にその羊を数え、一頭失せたるを見出せり」
こういったイエスの言葉は、聴衆たちのより素朴な自己に訴えかけ、内なる原初的な祖先たちの記憶を呼び覚ます。
心の内奥で私たちはみな農夫で、みな葡萄園を愛している。私たちの民族的な記憶の牧草地には、羊飼いと羊の群れ、失われた羊がいる。

著者のカリール・ジブラーン(1883-1931)はレバノンのマロン派の共同体に生まれ、12歳で渡米。アラビア語と英語で著作した米国きってのアラブ系詩人として、作品は読み継がれてきた。
イエスの歩んだ土地の風光を、ジブラーンは肌で知っていた。まるでイエスとその時代の人々が目の前で語っているかのように、言葉が読む人に届くだろう。




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